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隅田川 [作品に関すること]

花見の季節です。
近所の公園でも毎年「桜まつり」と称したイベントがあるのですが、節電と自粛で取りやめになってしまいました。
それでも桜はちゃんと咲いてくれます。
人出や喧噪が少ないほうが桜の美しさをゆっくりと楽しめるので良いかも・・・と思いつつ公園に出かけてみたら、予想に反してなかなかの人出がありました。
やはり花見は春の風物詩として欠かせないという人が多いようですね。

桜.jpg
(*近所の公園の桜です。隅田川でなくて済みません・・・)

さて、今回は賢治さんの文語詩の中から「隅田川」という花見をうたった作品を取り上げて、思うことを書いてみます。

      隅田川

   水はよどみて日はけぶり
   桜は青き 夢の列
   汝は酔ひ痴れてうちおどる
   泥洲の上に うちおどる

   母をはるけき  なが弟子は
   酔はずさびしく そらを見る
   その芦生への  芦に立ち
   ましろきそらを ひとり見る


この文語詩は賢治が大正10年4月に作った短歌を元にした作品と考えられています。
「歌稿B」には「大正十年四月」の作品群の中に「東京」と題して、

  エナメルのそらにまくろきうでをささげ、花を垂るるは桜かあやし 
               ※
  青木青木はるか千住の白きそらをになひて雨にうちよどむかも。
               ※
  かゞやきのあめにしばらくちるさくらいづちのくにのけしきとや見ん。 
               ※
  ここはまた一むれの墓を被ひつゝ梢暗みどよむときはぎのもり。
               ※
  咲きそめしそめゐよしのの梢をたかみひかりまばゆく翔ける雲かな
               ※
  雲ひくく 桜は青き夢の列 汝は酔ひしれて泥洲にをどり。
               ※
  汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをながめたつかも

といった一連の歌(805~811)を詠んでいます。

これらの歌からは花見の舞台は千住方面で、そばには隅田川が流れており、川岸には「泥州」や「芦原」があり、附近にはお寺もある様子がうかがえます。
文語詩「隅田川」の舞台にはいろいろな説があるようですが、これらの短歌を手がかりに考えるなら千住大橋あたりの「掃部堤」と呼ばれる場所が一番可能性が高いように思われます。
http://www.senjumonogatari.com/sakura2003.htm
2首目の「はるか千住の白きそらを」という言葉からは、千住大橋の南側から千住の桜を遠望したような感じも受けます。

「汝」とうたわれた人物は作者の師にあたる人物で、どうもお酒が好きなようです。
「汝=国柱会の誰か」と見ることもできなくはないかも知れませんが、酒を飲んで踊るという記述から定説となっているように「汝=関豊太郎博士」と見るのが自然な感じがします。

そして、花見の最中に雨が降っています。
花見に出かけたくらいですから、降ったとしても小雨だったと思います。
昼ごろから夜にかけて雨の降った4月7日、8日、12日、午前中から昼前にかけて雨の降った13日などが考えられます。
ただし、いずれも平日であるため、賢治自身はともかく西ヶ原の農林省農事試験場に勤務していた関博士は普通に出勤していては花見はできません。
関博士は職場を離れて自由に出歩ける立場にあったとか、平日でも毎日出勤する必要はなかったとか、あるいは休暇を取った等々、いろいろと想像はできますが・・・。
ちなみに、千住大橋の最寄り駅の三ノ輪には、西ヶ原から王子電気軌道(現在の都電荒川線)で1本で行けます。

それでは、「汝が弟子」とは誰なのでしょうか?
短歌からは、「汝が弟子」とは作者である賢治自身と読むのが一番自然な気がします。
ところが、もう一つ「汝が弟子」とは保阪嘉内であるという説があります【注】。
それは、文語詩「隅田川」の第2聯の初めの「母をはるけき」のところが、下書稿の第一形態では「甲斐より来ける」となっていたことに拠っています。
確かに賢治の身の回りで甲州出身の人物といえば、保阪嘉内のことになるのですが・・・。
しかし、この部分は「甲斐より来ける→越より来ける→奥野に生れし→越路に生れし→都ならはぬ→ふるさと遠き→母をはるけき」と何度も書き直されており、一度は「甲斐より来ける」と書いたものの、そのことにはあまりこだわっていないように感じられます。
「甲斐より来ける」から「越路に生れし」にかけては、どちらかといえば語呂や言葉の響きなどを探っているような気がします。
また、推敲の果てにたどり着いた「母をはるけき」という言葉からは、その直前に書いた「ふるさと遠き」と関連させれば、故郷にいる母と遠く離れて暮らしている人物(おそらくは当時の作者自身)が浮かんできます。
「母をはるけき」を母と死別したことの意に取るのは、どうも深読みが過ぎるように思えてなりません。

残念ながら保阪嘉内の『国民日記』は4月5日~8日と13日~16日の部分が破棄されていて、肝心の部分の動向が確認できません。
花見の歌も4月10日や17日のページに見えますが、甲府の舞鶴城公園の桜を詠んだものと思われ、また桜に寄せて「晴れ渡る四月のはな(桜)に君思へばはらはらと散るぞは風のまにまに」などとある女性への思いを詠んでいます。
現存する日記のページを見る限り、4月3日に東京で会ったこの女性のことはその後も繰り返し書かれているものの、関博士や賢治を懐かしむような記述は出てこないこと、当時の保阪嘉内は山梨県教育会に勤務するサラリーマンであったことなどから、仕事を休んで関博士と賢治の花見に同席したと考えるのはどうも無理があるように感じます。
したがって、この部分は甲州にいる保阪嘉内の心情を思いやったものではないか……と何年かのあいだ理解してきました。

長々といろいろなことを書いてしまいましたが、いずれにしてもこうした素材となった出来事があったとしても、素材はあくまでも素材です。
創作された作品は一枚の絵のように、素材を元に現実とは違う一つの世界をそこに作っていると思うのです。
素材になかったものを描き足すこともあるでしょうし、消してしまったものや変えてしまったものもあるでしょう。
やはり天沢退二郎さんも指摘したように、作品はあくまでも作品として現実の出来事とは峻別して味わうべきではないでしょうか。

文語詩「隅田川」も素直に賢治さんが記したまま、水をたたえた隅田川のほとりに咲く桜の様子や、お酒を飲んで良い気分になって泥州に出て踊る師、酒を飲まずに遠く離れた故郷に居る母のことを思いながら芦原に立って師のさまを眺めている弟子(おそらく作者=賢治)・・・そんな花見の情景を思い浮かべながら読むのが一番しっくりくるように最近は思っています。

桜2.jpg

【注】
小野隆祥『宮沢賢治冬の青春』洋々社、1982年。
宮沢賢治研究会編『宮沢賢治 文語詩の森 第2集』柏書房、2000年。



(記:azalea)
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遠く琥珀のいろなして [作品に関すること]

四月になりました。
まもなく震災から1か月が経とうとしています。
関東地方では、ようやく春の暖かさが感じられるようになってきました。
賢治さんの愛した岩手の山々は、今の時期はどんなぐあいでしょうか・・・。
そんなことを考えていると、心の中に一つの詩が浮かんできました。

    〔遠く琥珀のいろなして〕 

  遠く琥珀のいろなして、  春べと見えしこの原は、 
  枯草をひたして雪げ水、  さゞめきしげく奔るなり。
 
  峯には青き雪けむり、   裾は柏の赤ばやし、 
  雪げの水はきらめきて、  たゞひたすらにまろぶなり。


なんとも美しい詩ですね。
賢治さんがイメージした場所は、岩手山麓のどこかでしょうか。
山に残る雪が琥珀色の夜明けの空を映して輝く中を、麓の原では透き通った清冽な雪融け水がほとばしるように流れている・・・。
そんな様子が見えるようです。
そして、その雪融け水の流れる音は、春の足音のように聞こえることでしょう。
たった4行の短い詩の中に、早春の世界が広がっています。

この詩を読むと、なんとなく『水仙月の四日』のラストシーンがだぶってきます。

まもなく東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかゞやき、黄金に燃えだしました。丘も野原もあたらしい雪でいつぱいです。(中略)雪わらすはうしろの丘にかけあがつて一本の雪けむりをたてながら叫びました。

「水仙月」について12月から4月まで諸説ありますが、私には4月説が一番しっくりきます。
最後に冬の低気圧が一暴れして雪を降らせ、それを境に季節は春へと移っていく・・・そんな日の情景を描いたのが『水仙月の四日』なのではないかと思うのです。
そして、〔遠く琥珀のいろなして〕のような情景があって、さらに少し季節が進むと歌曲の「種山ヶ原」のような感じになるのかな・・・と思うのです。

  春はまだきの朱雲を
  アルペン農の汗に燃し
  縄と菩提樹皮にうちよそひ
  風とひかりにちかひせり。
    四月は風のかぐはしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる。
  
  繞る八谷に劈靂の
  いしぶみしげきおのづから
  種山ヶ原に燃ゆる火の
  なかばは雲に鎖さるゝ。
    四月は風のかぐはしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる。


これらの作品はモデルとなった場所や書かれた年も異なることは、もちろん承知しています。
でも自分としては、まずは白紙の気持ちで作品を味わいたいと思うのです。
昔はいろいろと細かいことにこだわったこともありましたが、今はそんなことは一切考えないで幻燈のように詩の情景を心に浮かべて楽しんでいます。

晩年の賢治さんは病床で妹のクニさんに「聞いて、思い浮ぶ状景を言ってくれ。」といって文語詩を朗読して聞かせ、クニさんの感想などを聞いて、また原稿に手を入れたりしていたそうです(「校本宮澤賢治全集 第5巻月報」参照)。
〔遠く琥珀のいろなして〕は下書稿が4つありますが、推敲の過程で言葉や表現を磨いていった様子がうかがえます。
勝手な想像ではありますが、これもまたクニさんに朗読して聞かせた詩の1編であったのかも知れません。


(記:azalea)

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四月は風のかぐはしく [作品に関すること]

宮沢賢治の歌曲の中に「種山ヶ原」という作品があります。

  春はまだきの朱(あけ)雲を
  アルペン農の汗に燃し
  縄と菩提樹皮(マダカ)にうちよそひ
  風とひかりにちかひせり
    四月は風のかぐはしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる

  繞(めぐ)る八谷に劈靂(へきれき)の
  いしぶみしげきおのづから
  種山ヶ原に燃ゆる火の
  なかばは雲に鎖(とざ)さるゝ
    四月は風のかぐはしく
    雲かげ原を超えくれば
    雪融けの草をわたる


どうしたらこんな情景が描けるのか・・・と思うくらい美しい詩だといつも思っています。
賢治は、この詩をドヴォルザークの交響曲「新世界から」第2楽章のラルゴの旋律(キャンプファイヤーの時などによく歌われる「遠き山に日は落ちて」の曲です)に合わせて歌っていました(注1)。

五月の時候の挨拶には、「風薫る」という言葉がしばしば使われます。
「風薫る」とは俳句の初夏の季語で、南風が若葉の香りをのせて吹いてくるといった意味です。
24歳でこの世を去った詩人の立原道造が逝去の直前に友人に「五月の風をゼリーにして持ってきてください」と頼んだと言われていますが、道造はそんな感じの風をイメージしていたのでしょうか。

賢治の歌曲「種山ヶ原」では、「四月は風のかぐはしく」とうたわれています。
この「四月は風のかぐはしく」という表現が、私はとても好きなのです。
五月の風よりももっともっと淡く柔らかい感じの、芽吹いた草木のにおいをのせた春の風・・・。
五月の風が緑色だとすれば、四月の風は薄い黄緑色といった感じでしょうか。
この歌を聴くと、そんなかぐわしい風がそよ吹く中で賢治が目にした、種山ヶ原の美しい情景が目に浮かんでくるようです。
単に視覚的に捉えるだけでなく、このように五感(さらに言えば五感を超えた全身全霊といった感覚)で受け止めるような自然の描写には、賢治の表現の豊かさを感じないではいられません。

四月になって、この歌を改めていろいろ聴いてみました。
「種山ヶ原」を取り上げたCDはいくつも出ていますし、YouTubeなどでも聴くことができます。
音楽は人によって好きずきがありますが、私は青木由有子さんのものをよく聴いています。

CD.jpg
     青木由有子さんのCD(これは一部です)

青木さんの「種山ヶ原」は、ドヴォルザーク作曲のもの青木さんのオリジナル曲のものの両方があるのですが(注2)、どちらもそれぞれに素晴らしく、何度聴いても飽きません。
ドヴォルザークの曲の方はもちろん、オリジナル曲の方もとてもよくこの詩のイメージに合っていると思います。

賢治にとっての四月とは、

  いかりのにがさまた青さ
  四月の気層のひかりの底を
  唾し はぎしりゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
    (「春と修羅(mental sketch modified)」より)

のようにどんよりと重たい感じのイメージが強いかも知れませんが、この「種山ヶ原」のような美しい作品もあるのです。
いつか、四月の種山ヶ原に行って、かぐわしい風を感じてみたいと思うのですが、実現できる日が来るでしょうか・・・。

【注】
1 詳しくは「宮沢賢治の詩の世界」による「種山ヶ原」の解説をごらんください。 また「遠き山に日は落ちて」についてはこちらも参考になります。
2 青木さんの「種山ヶ原」を収録したCDはここでリンクしたもののほかにも複数リリースされています。くわしくはこちらをごらんください。


(記:azalea)
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雪渡り [作品に関すること]

関東地方は今年は雪が多いようです。
今朝も目が覚めたら外は真っ白な雪景色になっていました。
こういう風景を見ると必ず宮沢賢治の「雪渡り」を思い浮かべてしまいます。
賢治の数ある童話の中で、私の一番好きな作品です。

通勤の時間を利用して、この朗読CDを聴きました。
雪渡り.jpg
月読かぐやさん・水元若さんという双子の姉妹の方が朗読されているのですが、賢治の描く世界をとてもよく表現していると思います。
声の使い分けなどもすばらしく、今まで聴いた「雪渡り」の朗読の中では一押し!です。
雪景色を見ながら聴いていると、四郎やかん子や紺三郎たちがどこかから現れてきそうな気さえします。

また二人で朗読しているので、
「♪堅雪かんこ、しみ雪しんこ・・・」
「♪狐こんこん、狐の子・・・」
といった歌のところがとてもいい雰囲気です。
とくに、
「♪キック、キック、トントン。キック、キック、トントン。キック、キック、キック、キック、トントントン。」
のところなどは聴いていて踊り出しそうになります。

友人から薦められたものですが、すっかりはまってしまいました(^^)
普通のCDショップには置いていないようですが、通販のページがあります。



(記:azalea)
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とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く [作品に関すること]

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という賢治の詩「習作」に書かれているものと同じ詩句が、保阪家で歌われてきた家庭歌の歌詞の一節にもなっていることについては、2006年に講演の中で触れたことがありますので、ご記憶のある方もあるかも知れません。

習作1.jpg

習作2.jpg

そのころはこの詩句を賢治と嘉内をつなぐものとして論じようというような人はほかにいなかったのですが、このところsignalessさんhamagakiさんのブログでずいぶん話題になり、私の話も出てきました。そこで、私の考えを間違って受け取られないように、その時に話したこと(といっても十分な根拠がないため余談のようなものですが)を一通り記しておこうと思います。
十分に原稿を練る余裕がなく、雑駁なもので恐縮ですがご覧いただければ幸いです。

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」
賢治は、「カルメン」の劇中歌の一つである北原白秋作の「恋の鳥」の1番(捕へて見ればその手から/小鳥は空へ飛んでゆく)と3番(捕えよとすれば飛んでゆく/逃げよとすれば飛びすがり)をミックスしたような詩句を「習作」の中に記しました(註1)
これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。
私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。
ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。
しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。
そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。

ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。
大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。
おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。
その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。
賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。
もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。
さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえばsignalessさんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。
そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。
この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。
(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)
「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」
この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。

嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。
それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。
このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。

要は、
(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか
(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる
ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。
また、保阪家の家庭歌には上田敏の『海潮音』の詩句(ウィルヘルム・アレント原作の「わすれなぐさ」)も取り入れられていますし、家庭歌の旋律は「恋の鳥」とは全く異なるもの(強いて言えば「精神歌」に似ているように感じます)ですので、きちんと論ずるにはそのあたりの考察も必要になってくるでしょう。

現時点では思いつきのようなものにすぎませんが、私はこんなふうに考えています。
「恋の鳥」についてはこちらをごらんください。


(註1)
d-scoreには『世界音楽全集19「流行歌曲集」』(昭和6年発行)掲載の歌詞が転載されており、本稿では暫定的にこれに従っています。それを見ると北原白秋の「恋の鳥」の3番は「とらよとすれば・・・」ではなく、「捕えよとすれば・・・」となっています。
hamagakiさんからのコメントには、この歌詞は誤りとの御指摘がありますが、d-scoreの誤りと断じるには第一に出典である『世界音楽全集19「流行歌曲集」』と照合する必要があります。
(当時の曲譜集ではそのように記されて流布しているのかもしれませんので、いずれ確認はしたいと考えています)
もし元の歌詞が「捕えよとすれば・・・」であるならば、この部分の違いにも留意する必要があるでしょう。
(註2)
賢治の12月31日付けの書簡に応じて嘉内がすぐさま上京し、一緒に「カルメン」を見たとすれば、ぎりぎり1月4日の公演には間に合うでしょうか。もし嘉内は間に合わなかったとしても、賢治だけでも「カルメン」を見たかも知れません(このことについてはhamagakiさんのブログに詳しい考察があります)。その時、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って覚えたとしても、『春と修羅』執筆時には正しい歌詞を知り得ていたと思われますので、普通なら「習作」には正しい歌詞が記されるはずです。そういう意味で、「習作」に引用(?)された詩句は、賢治から嘉内へのメッセージであり、嘉内は『春と修羅』を読むことによってそのメッセージを受け取り、歌にしたと私は考えています。
テレビやラジオのなかった時代、レコードや弾き語りなどを通じて「恋の鳥」が巷で流行するにはある程度の時間がかかることを考慮すると、二人とも「カルメン」を見なかったと考えるならば、二人の再会は少し間をおいて2月とか3月のことであったような気がします。
なお、嘉内が少なくとも新聞記者時代に「恋の鳥」の正しい歌詞を知っていたことは、この歌が妻のさかゑさんの愛唱歌の一つであったことからみても間違いないでしょう。にもかかわらず家庭歌の歌詞が「習作」の詩句と同じであるということは、そこに嘉内の意図が反映されていると見るべきでしょう。

(記:sora)
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大正10年6月2日の嘉内 [作品に関すること]

6月になりました。
何か記事を書いてみたいと思いつつ、5月が終わってしまい、ちょっと焦っています。

さて、大正10年の今日、保阪嘉内は何をしていたのでしょうか?
『国民日記』を見ますと、6月2日のところには短歌が12首書きつけてあり、その中には「駅」「渡船」「汽車」といった言葉が散見します。
短歌以外には何も書かれていませんので、何があったかは分かりませんが、どこか旅行にでも出かけていた様子です。

その中から3首を紹介します。

朝の駅友と下り来し山の道を餅ほゝばりて歩み行くかな、
軽げなる女の髪をなぶりつゝ夏河風のふける渡船場
山の駅の高みを往ける汽車を見ついつしか艸にね入りたるかな、


さて、これはどこの情景なんでしょうか?
いろいろ想像してみるのも、楽しいかも知れません。


(記:azalea)
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さくらさきみち めぐむもの [作品に関すること]

あおいそら あおいそら
さくらさきみち めぐむもの
われらいま われらいま
のぞみはたかし うつくしし
あおいそら あおいそら
さくらさきみち めぐむもの

ひかりゆれ ひかりゆれ
あおばかがやき まなびやに
われらいま われらいま
ともにてをとり すすまなん
ひかりゆれ ひかりゆれ
あおばかがやき まなびやに

てんじつよ てんじつよ
だいちはてなし ちちははよ
われらいま われらいま
おおしくこころ きたわなん
てんじつよ てんじつよ
だいちはてなし ちちははよ

ゆきつみて ゆきつみて
ほしよきらけき みねのまつ
われらいま われらいま
いのりささげん さちのひの
ゆきつみて ゆきつみて
ほしよきらけき みねのまつ

倉吉市立明倫小学校の校歌です。
校歌といえば、学校の名前や地域の名所旧跡などがでてくるのが定番ですが、この歌にはそれが一つもありません。
でも、なぜか心にひびく歌詞だとは思いませんか?

この歌は、河本緑石が昭和5年(1930年)に作詞したものです。
全部で4番まであって、それぞれ春夏秋冬と四季が表現されていますが、私は春をうたった1番が大好きです。
「さくらさきみち めぐむもの」という言葉の中には、躍動する生命の力があふれているように感じられます。
ちょうど今、入学式のシーズンですが、この歌で迎えられる明倫小学校の新入生たちが何となくうらやましく思われます。
私がこの歌を知ったのは、数年前に倉吉市で行われた河本緑石のシンポジウムでのことですが、それ以来桜の季節になると、なぜかこの歌を思い出すようになりました。

ところで、友人からいただいた情報によれば、NHK(BS)で放送されている「俳句王国」の公開収録が6月21日(土)に鳥取県の三朝町で行われるそうです。
http://www.nhk.or.jp/tottori/news/info/20080621.html
もしかしたら、河本緑石にも触れられることがあるかも知れませんね。
「カムパネルラの館」も紹介されるかも?


(記:azalea)
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ホームにて その2 [作品に関すること]

3月16日、韮崎駅のホームに立って正面にそびえる茅ヶ岳の姿を見た時、中島みゆきさんの「ホームにて」が心に浮かんできました。
そのとき思ったことを元にした記事が、前回の「ホームにて」でした。
ほんのつぶやきのつもりだったのですが、思いのほか反響が大きくて、この数日はアクセス数が普段より多かったのはもちろん、コメントやメールをそれぞれ何人かの方からいただき、とてもうれしく思っています(^_^)
本当にありがとうございました!!

nirasakist.jpg
現在の韮崎駅


考えてみれば、保阪嘉内の作品には駅舎や汽車、電車など……そして旅に関するものがかなり多いのです。
盛岡に行ったり、東京に行ったりと、汽車に乗ることが多かったためかも知れませんが、やはり鉄道に対する思い入れが強かったのではないでしょうか。
そして、銀河鉄道……それこそが嘉内が最後に乗った列車であったのかも。。。

さて、大正8年3月、嘉内は韮崎駅のホームから旅立ちました。
行き先は盛岡。
盛岡高等農林学校の同級生たちの卒業送別会に参加するためでした。
本来ならば一緒に晴れの日を迎えるはずだった同級生たちと再会する嘉内の心境は、きっと複雑なものだったことと思います。

  梅の花だんだら丘に咲いて居き
  ふと汽車よぎる山かひの原

嘉内は、旅立ちの時にこんな歌を作っています。
この「山」がもしかしたら、茅ヶ岳でしょうか?

スイッチバックの情景を詠んだものもありました。

  谷合の小駅なれど、折りかへす
  線路はいまぞ山をくゞらす

さて、盛岡の駅では、こんな「ホームにて」が嘉内を待っていました。

  友ひとり、我つく汽車を待って居し、
  プラットホームの雨の湿りに、

この「友」は、「アザリア」の中心人物のひとりで、嘉内と同級生の河本義行(緑石)ではないかと思います。
1年ぶりの再会……

  盛岡の友はなつかし、何にあれ
  初恋人に会ふがごとくに

二人の胸中にはどんな思いがあったのか、考えるとせつなくなります。
(すみません、またしんみりした話になってしまいました[たらーっ(汗)]

(記:azalea)
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河本義行(緑石)のお雛様 [作品に関すること]

おとといの3月3日は雛祭りでした。
みなさま、今年はどんな雛祭りを過ごされましたか?
また、雛祭りや雛人形に、忘れられない思い出をお持ちの方もたくさんいらっしゃることと思います。

鳥取県の三朝温泉に「木屋旅館」という老舗の温泉旅館があります。
ここの大女将の御舩道子さんは、「アザリア」の主要メンバーの一人であった河本義行(緑石)の御息女(次女)です。
河本義行は、倉吉農学校在職中の昭和8年7月、生徒の水泳訓練中に溺れかけた配属将校を救助しようと体調不良の身を顧みず海に飛び込み、配属将校は助けられたものの自らは陸に戻る途中に心臓麻痺を起こして帰らぬ人になってしまいました。
この話と『銀河鉄道の夜』のカムパネルラの最期がよく似ていることから、河本義行をカムパネルラのモデルとする説もあり、旅館の向かい側にある喫茶室とギャラリーを兼ねた施設には「カムパネルラの館」と名づけられています。
http://misasa.co.jp/kannai.html

カムパネルラの館.JPG
「カムパネルラの館」外観

館内は、手前の方が喫茶コーナー「茶房木々」、奥の方が道子さんが集めてこられた賢治に関するさまざまなグッズや本、緑石の遺品・遺作などの展示コーナーになっています。
展示コーナーの見学は無料で、本は自由に読むことができます。
「茶房木々」の珈琲もおいしいです!!

店内風景.JPG
展示コーナーはこんな感じです

展示コーナーの一番奥には、お雛様が飾られています。
これは、緑石(つまり道子さんのお父さん)が、道子さんの初節句に紙粘土(新聞紙を溶かしたもの)でこしらえてくれた、手作りのお雛様なのです。
不格好なところがあるかも知れないけれど、とても暖かい感じの、すてきなお雛様だと思いませんか?

手作りのひな人形.JPG
緑石の手作りの雛人形

高価で立派な雛人形もいいかも知れません。
でも、親が子どものために心をこめて作った、手作りの雛人形にまさるものはありません!!
何でもお金を出せば買える世の中ですが、たとえ簡素なものであっても手作りの雛人形で祝う雛祭り・・・、それはとってもすてきなことだと私は思います。

(記:azalea)
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保阪嘉内の水彩画 「駒ヶ嶽と空」 [作品に関すること]

季節が移りゆくのは早いですね。
今年も、もう3月になりました。
そして、昨年9月にこのブログを始めて、半年が経ちました。

So-netのブログのシステムも今週初めに新しくなりましたが、この記事はその後の初めての投稿です。
慣れないせいかちょっとまだ使いにくく、それに管理画面がずいぶん重たくなった気がします。
一瞬、フリーズしたと思ってしまうことも[たらーっ(汗)]
だんだん改善されるとは思いますが・・・。

さて、このところ、むこちゃんさんが「保阪嘉内が眺めた山」を連載してくれていますが、保阪嘉内はそんな甲州の山々を心から愛していました。
大正3年の『懐中日記』には、

  南不二、北金峯の山ぞ見る、我甲斐の国は美しくあり

大正6年の歌稿ノート『ふるふ大地と山々の雪と』には、

  聞けよ君、わが故郷は雪白きむら高山にかこまるゝ国、
  甲斐が嶺のま白き雪を愛づと云ひし、むら立つ山を愛づと云ひにし、

といった歌が記されています。

また、山を描いたスケッチも遺されています。
今回は、保阪嘉内の描いた水彩画の中から「駒ヶ嶽と空」と題された作品を紹介します。
甲斐駒ヶ岳を描いたものです。

駒ヶ嶽と空.jpg
「駒ヶ嶽と空」 1914年12月30日


■こちらの記事もごらんください
http://azalea-4.blog.so-net.ne.jp/2008-02-04


(記:azalea)
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