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「アザリア」の仲間4人の写真 撮影日時・写真館が判明 [人物に関すること]

「アザリア」の仲間4人が写っている象徴的な写真、この写真の撮影日時・写真館が小菅健吉氏の手紙から明らかになったことが盛岡タイムス6月6日付けで報道されています。
手紙は宮沢賢治研究会顧問である杉田英生氏(東京都豊島区在住)あてに1966年9月17日付けで出されたものです。
その手紙にはアザリアの4人の複製写真と共に「当時の写真が出てきたので一枚お送りします」と記し、「大正六年十月三十一日 盛岡市奈良写真館」の注釈があるそうです。
奈良写真館は中の橋のたもとで1902年から1933年まで開業していました。
杉田氏はアザリアの仲間で唯一長命だった小菅健吉氏と66年ごろから亡くなる77年までほぼ毎年訪問し話を聞いていたそうです。

この写真のいきさつは新校本宮沢賢治全集にも掲載されていません。
大正六年十月三十一日といえば、アザリア三号が十月十七日に発行され創作活動にも学生生活にも充実した時期だったでしょう。
誰が「写真館で写真をとろう」と言い出したかわかりません。
しかし当時は大切な時期、節目には写真館で写真を撮る習慣があり、保阪嘉内にも写真館で撮った甲府中学時代の写真が残っています。

この小菅氏から杉田氏への手紙の複製は現在開催中の岩手大学記念展示で公開されています。
また保阪庸夫氏にも複製が贈られる約束になっています。
この手紙の文面から花巻市の賢治記念館で保存されているアザリア1号から6号が
小菅氏から清六氏に寄贈されたことも明らかになっています。
小菅氏は保阪庸夫氏に生前「賢治関係の資料は全て記念館に寄贈した」と語っていることを考えると、更に他の資料の存在も考えられます。

11213352.jpg

一枚の写真を撮るに至った過程、誰が写真館で撮ろうと言い出したか、どんな会話をしながら写真を撮ったか、そして嘉内だけが違う方向を向いて撮った写真にみんなはどんな反応をしめしたか。
考えただけでも楽しくなります。
あなたはどんな状況を想像しますか。

(記:むこうみず)



■補記
「盛岡タイムス」ではセンセーショナルな報道がされているようですが、この写真の撮影日については、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』の口絵の解説で既に触れられています。
保阪嘉内はこの写真を貼ったアルバムに撮影日を記入しており、写真には奈良写真館の刻印もあります。
『心友・・・』の著者がそれ以上のことを記さなかったのは、掲載にあたって改めて刻印を確認する余裕がなく、「奈良写真館」についても調査ができなかったからですが、この刻印こそが4人が所持していたオリジナルの写真である証(リプリントでは消えてしまいます)と言えるでしょう。
今回の杉田英生氏の発表によって、小菅健吉・保阪嘉内両氏の記録が一致していることが確認できたことは大きな意味があります。
岩手大学での記念展で4家の遺族が揃ったことを機に、今後はこうした相互の資料を関連させた伝記事項の検証が進むことを期待する次第です。

(記:azalea)
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7月18日 [人物に関すること]

大正10年7月18日、嘉内はこう日記に書きました。
「宮澤賢治 面会来」
日記の頁には、それだけしか書かれていません。

0718.jpg

会った二人はいったい何を話したのでしょうか?
そこで何があったのでしょうか?
それは・・・謎です。
ひとそれぞれに自分の思いをのせて想像してみろ、わかる奴にはわかる。
嘉内はそんな風に投げかけているような気もします。


(記:azarea)
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青年教育者としての嘉内 [人物に関すること]

保阪嘉内は、在郷軍人として藤井青年訓練所で地元の青年たちへの教育活動を行います。
その中でも宮沢賢治のことがしばしば語られたようです。
青年教育に従事する中で、嘉内は日本青年協会の活動に次第に魅せられていきます。
全国に農業伝習所を作り、次代の農村を担う人材を育成する・・・嘉内は青年たちに自分の夢を託そうとしたように思えます。

昭和6年9月の下旬、宮沢賢治は東北砕石工場の販売促進のために大きなトランクを持って上京したものの、高熱を出して瀕死状態で東京を後にします。
ちょうど、そんな賢治と入れ替わるように嘉内が上京し、10月から浄牧院という寺院(現・東京都東久留米市)の中に設けられ日本青年協会の武蔵野道場において、青年たちの指導に従事することになります。

昭和7年の7月3日、嘉内は2枚の写真を撮りました。
S7-7-3/道場講習生.jpg
       道場講習生

S7-7-3浄牧院にて.jpg
       浄牧院にて

7人の講習生に囲まれた嘉内・・・いい顔してますよね。
理想の実現に向けて、充実した日々を送っていたに違いありません。
それでは最後にもう一度、嘉内スマイル!!

kanai.jpg

(記:azalea)


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山梨日日新聞の集まり [人物に関すること]

保阪嘉内は、大正13年(1924)6月、甲府中学校の後輩で文芸仲間でもあった野口二郎に請われ、野口が社長を務める山梨日日新聞に編集及び文芸部の記者として入社します。
嘉内が正規の社員として山梨日日新聞に在籍したのは、大正14年(1925)5月までのほんの1年ほどですが、嘉内はその後も遊軍記者として木喰仏の取材に協力するなど、農業に従事するかたわらで新聞社の仕事にも携わっています。

さて、83年前の今日、嘉内は楽しいひとときを過ごしました。

山梨日日の集まり.jpg
この写真には、次のようなタイトルが添えられています。

嘉内のラベル.jpg

さて、嘉内はどこにいるでしょうか?
すぐに分かった方・・・きっと、このブログのコメントのすみずみまでよくお読みになっていらっしゃいますねー!!

答えは・・・

部分拡大.jpg
ここです!! 左側のイケてる男性が、28歳の嘉内さん[黒ハート]

翌月、嘉内は山梨日日新聞を退社してしまいますので、この時にはもう新聞社を去る決意を心の中に固めていたことは間違いないでしょう。
そして、新聞社を辞め、生家で再び営農を開始した時、嘉内は賢治に手紙を書いたはずです。
その返事こそが、「大正14年6月25日 保阪嘉内あて 封書」・・・
「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になつて働らきます」という、農学校の教師をやめる決意を記した、保阪家に現存する賢治から来た73通の手紙の最後を飾る、あの手紙ではなかったでしょうか。
「わたくし」ではなく「わたくし」。
この「も」の一字には、嘉内に対するさまざまな気持ちが詰め込められているように思えてなりません。

さて、上の宴席の写真の下には、「その翌春は」と題された、こんな写真が貼られています。

その翌春は.jpg
これが、噂(?)の嘉内スマイル[ぴかぴか(新しい)] 赤ちゃんは善三さんです。
嘉内さんだけでなく、みんなとってもいい表情だと思いませんか!

今回は、保阪嘉内ファンクラブのみなさま(爆)へ、サービスしてみました(うそうそ)。


(記:azalea)
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保阪嘉内 弟への手紙 [人物に関すること]

保阪嘉内が書いた手紙は保阪家のお蔵にたくさん残されています。
また嘉内に宛てた手紙も残されています。
私たちも三度に渡り、ほこりだらけになって調査をしましたがまだ分析しきれていません。
賢治からの手紙は残念ながら新しいものは発見されませんでしたが、小菅健吉氏、河本義行氏、盛岡高等農林の関係者などの手紙も新たに発見されています。
嘉内が書いた手紙は圧倒的に父善作に宛てたものが多いですが、兄弟や我が子に宛てたものも見つかっています。
今回は弟次郎に宛てた葉書です。
次郎は保阪家の次男で嘉内の16歳年下になり、嘉内と次郎の間には4人の妹がいます。

この葉書は盛岡高等農林を除名された翌年の1919年(大正8年)、嘉内23歳の時の12月21日付けの消印です。
嘉内は、この年12月1日から一年志願兵として、陸軍近衛輜重兵大隊に入営しています。
弟を思う嘉内の気持ちが表れている、いい手紙だと思います。
マイニチガッコウニイッテイマスカ。 モウオセウガツガチカクナッテウレシイデセウ。 ニイサンハヘイタイサンニナッタノデオセウガツハコトシハグンタイデスルノデス。 モウ、ウマニノルノガタイヘンジャウズニナリマシタヨ。 サムクナッタカラカラダヲダイジニナサイ。
このようなことが書かれています。

弟への葉書表.JPG 弟への葉書.JPG

賢治は近衛輜重兵大隊の嘉内に14通の手紙を書いています。
兵隊として活躍する嘉内に対して家業を手伝い、忸怩たる思いで生活する賢治は嘉内を心配したり羨望の眼差しで見たりしています。
次郎には「馬に乗るのが大変じょうずになった。」と報告していますが、賢治は心配して「保阪志願兵はもう馬にはよく乗れますか」「いかにもあなた方は始終馬に乗っているのですな」など、馬についての話題を投げかけています。
そして馬についての短歌を書いたりしています。
次郎に宛てた愛情あふれる手紙に対して、賢治にはどんな内容の手紙を送ったのでしょう。知りたいところです。

次郎は嘉内亡き後の父善作の期待を一身に担っていましたが、昭和19年11月1日ニューギニア島セベック州ブーツで戦死します。
ひたすら次郎の帰りを待っていた善作でしたが、その公報を受けとったのが昭和22年12月、悲嘆にくれ翌年には嘉内の長男である善三に家督相続し、昭和24年1月に病死します。

(記:むこちゃん)
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花園農村と大関松三郎「ぼくらの村」 [人物に関すること]

みなさんは大関松三郎を知っていますか。
大関松三郎は1926年(昭和元年)新潟県に生まれる。
詩集「山芋」が1951年に発行されると大きな反響をよび、現在でも読み継がれている。
厳しい農村の風土や労働の中から生活を真正面からとらえ、未来を歌った骨太な詩は12才の作であることを忘れさせられるほど深い感動を読者に与える。

山芋.jpg

松三郎の詩は山田洋次監督の「学校」の映画の中でも「夕日」という詩が取り上げられ、教師役の西田敏行の授業シーンに出てくる。
指導した寒川道夫氏は生活つづり方(作文教育)の優れた指導者で、教室や自分の下宿で子どもたちに社会の科学的な見方やあるべき農村の姿、歴史や文化を教え詩や作文にまとめさせた。
寒川氏は治安維持法で獄中に捕らえられ、戦後松三郎の詩を世に出した。
わたしは小学校の教師として学生時代にこの詩に出会い、時々授業にも取り上げたり折にふれてこの詩集を取り出している。
松三郎が掲げた農村の未来への理想と保阪嘉内が掲げた花園農村の理想がぴったり重なり合い現在につながっていることをみなさんに紹介したい。
少し長いですが読んでください。

ぼくらの村   大関松三郎

ぼくはトラクターにのる スイッチをいれる
エンジンが動き出す  ぼくの体がブルルンブルルンゆすれて
トラクターの後から 土が波のようにうねりだす
ずっとむこうまで  むこうの葡萄園のきわまで まっすぐ
四すじか五すじのうねをたがやして進んでいく
あちらの方からもトラクターが動いてくる
のんきな はなうたがきこえる
「おーい」とよべば 「おーい」とこだまのようなこえがかえってくる
野原は 雲雀のこえとエンジンの音
春のあったかい土が つぎつぎとめくりかえされて 水っぽい新しい地面ができる
たがやされたところは くっきりくぎられて
そのあとから肥料がまかれる 種がまかれる
広い耕地がわずかな人とわずかな汗で
いつもきれいに ゆたかにみのっていく
葡萄園東側にずっと並んでいるのは家畜小屋
にわとりやあひるや豚や兎や 山羊やめんようがにぎやかにさわぎまわり
そこからつづいている菜種畑や れんげの田には
いっちんち 蜜ばちがうなりつづけている
食用蛙や鯉やどじょうのかってある池が たんざく形に空をうつしながら
菜種畑の黄色とれんげ田の紅色の中に 鏡のようにはまりこんでいる
ずっとむこうの川の土手には 乳をしぼる牛や 肉をとる牛があそんでいる
こんなものの世話をしているのは としよりや女の人たち
北がわに大きなコンクリートの煙突をもっているのは 村の工場
半分では肥料を作っているし 半分では農産物でいろんなものを作っている
あそこから今でてきたのは組合のトラックだ
きっと バターや肉や野菜のかんづめや
なわやむしろやかますや靴なんかをのせているだろう
村で出来たものは遠い町までうられていく
そして南の国や北の国のめずらしいものが 果物でも機械でもおもちゃでも本でも
村の人たちののぞみだけ買ってこられる
組合の店にいってみよ 世界中の品物がびっくりするほどどっさり売っているから
あ、今 工場の右の門から蜜ばちのようにあちこちとびだしたオートバイは
方々の農場へ肥料を配達するのだ
いい肥料をうんと使って うんと肥えた作物を作らねばならない
あちらこちらから 静かにくる白い自動車は 病人をのせてあるく病院の自動車だ
「よう恒夫か、足はどうだい」 「もうもとどおりにはなおらんそうだ それでこんどは学校へはいってな 家畜研究をやっていくことになったんだ」
「おおそうか しっかりやってくれ さようなら」
自動車はいく ぼくはトラクターを動かす
病人はだれでも無料で病院でなおしてもらう
そして体にあう仕事をきめてもらうのだ
だれでも働く みんながたのしく働く 自分にかのう(かなう)仕事をして
村のために働いている 村のために働くことが自分の生活をしあわせにするのだ
みんなが働くので こんなたのしい村になるのだ
村の仕事は 規則正しい計画にしたがって 一日が時計のようにめぐっていく
一年も時計のようにめぐっていく
もう少しで 村のまんなかにある事務所から 交代の鐘がなってくるだろう
そうしたら ぼくは仕事着をぬぎすて 風呂にとびこんで 体をきれいにする
ひるからは 自分のすきなことができるのだ
絵でもかこうか 本でもよもうか
オートバイにのって 映画でもみにいこうか 今日は研究所にいくことにしよう
こないだからやっている 稲の工場栽培は
太陽燈の加減の研究が成功すれば 二ヶ月で稲の栽培ができる
一年に六回 工場の中で 五段式の棚栽培で 米ができるのだ
今に みんなをびっくりさせてやるぞ 世界中の人を しあわせにしてやるぞ
村中共同で仕事をするから 財産はみんな村のもの
貧乏のうちなんか どこにもいない
子供の乳がなくて心配している人なんかもない
みんなが仲よく助け合い 親切で にこにこして うたをうたっている
みんながかしこくなるよう うんと勉強させてやる
学校は 村じゅうで一ばんたのしいところだ
運動場も 図書館も 劇場もある  ここでみんなが かしこくなっていく
これがぼくらの村なんだ こういう村はないものだろうか
こういう村は作れないものだろうか いや作れるのだ 作ろうじゃないか
君とぼくとで 作ろうじゃないか 君たちとぼくたちとで作っていこう
きっと できるにきまっている
一度にできなくても 一足一足 進んでいこう
だれだって こんな村はすきなんだろう
みんなが 仲よく手をとりあっていけばできる
みんながはたらくことにすればできる
広々と明るい春の農場を 君とぼくと トラクターでのりまわそうじゃないか


これが松三郎の小学校6年生の詩です。
松三郎は1944年(昭和19年)南シナ海で雷撃をうけて19才で戦死する。
寒川氏は獄中からもどり戦後その死を知る。
寒川氏の文章の中に「松三郎、又三郎、何て似た名前だろう。松三郎にも又三郎を思いうかべるようなところがある。だまっているが、何か底知れぬ力を持っているところ、不屈で、不思議な野性味にみちたところ・・・」
農村の理想を掲げてつづった松三郎、嘉内の二人の少年の姿、そして宮沢賢治。
このことについて更に研究を深めたいと思っている。

(記:むこちゃん)
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「くまがや賢治の会」でわかったこと [人物に関すること]

先日(12月1日)、「くまがや賢治の会」で保阪嘉内と宮沢賢治のことについて話をさせていただきました。
二人の友情のこととか、二人が抱いた理想や夢のこととか・・・・
下手な話で、お聴きになっていた方は大変だったことと思いますが(^^;)

話の中で、昨年に韮崎文化ホールで開催した展覧会で作ったパネルの写真をいくつか紹介させていただきました。
その中にこういう写真がありました。

保阪嘉内のアルバムに貼られているもので、左側の写真には「二等兵の頃」、右側の写真には「保阪志願兵」というタイトルが書かれています。
左側の写真には「大正9年3月」とありますが、右側の写真には撮影時期が書かれていませんでした。

ここで思い出されるのが『宮澤賢治 友への手紙』でいえば「57」の
オ手紙トオ写真トヲアリガタウ存ジマス 殊ニ後者ハアナタノ面目ガ躍如トシテ 何遍私ヲ引キ入レテ笑ハセタカ知レマセン
という手紙です。
注に「この手紙は年月日がない。スクラップの貼付位置から大正九年一〇月または一一月頃と推定」とあります。

私は右側の写真が、この手紙に書かれている嘉内が賢治に送った写真ではないかとずっと思ってきましたが、なかなか確証が得られませんでした。
軍服で階級が分かればあるいは……と思ってきましたが、意外にも「くまがや賢治の会」で知ることができました。
会長さんは、盛岡高等農林学校の御出身で、一年志願兵として兵役の経験もお持ちの方で、写真を御覧になってすぐに「右側のは下士官の軍装です。軍曹でしょう」と教えてくださいました。
と、いうことは嘉内は大正9年11月に軍曹になって現役を除隊していますから、その時記念に撮影したものだと分かります。
「面目ガ躍如トシテ」という賢治の言葉にも、『宮澤賢治 友への手紙』の注にも、ぴったり来ます!

こちらの方が教えられた講演となりました(^^;)


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保阪嘉内をめぐる人々 (その3) 林 髞 [人物に関すること]

保阪嘉内をめぐる人々 その3
林髞(はやし たかし 1897-1969年) 筆名:木々高太郎(きぎ たかたろう)
甲府中学の同級生 大脳生理学者、小説家(第4回直木賞受賞者)

林髞は1897年西山梨郡山城村下鍛冶屋(現甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)へ入学。中学時代は弁論部に所属し、校友会雑誌へも投稿する文学青年であった。1915年(大正4年)に卒業した後は上京して福士幸次郎に師事し、金子光晴やサトウ・ハチローらとも親交を持ったが、家業である医学の道へ進み、1918年(大正7年)に慶應義塾大学医学部予科に入学。

1924年(大正13年)に同大学医学部を卒業、生理学教室助手に採用される。1932年にはレニングラード(ペテルブルク、現ロシア連邦)へ留学、イワン・パブロフのもとで条件反射学を研究する。翌年5月には帰国。
帰国後は新聞への医学随筆を執筆し、1934年(昭和9年)には科学知識普及会評議員となり、海野十三、南沢十七の勧めもあり「木々高太郎」のペンネームで、「新青年」11月号に探偵小説『網膜脈視症』発表。
「新青年」へ数々の短編を発表し、1936年(昭和11年)には海野らと「探偵文学」を創刊し、のちに探偵小説の専門誌「シュピオ」(ロシア語で「探偵」の意味)となる。1937年(昭和12年)には『人生の阿呆』で第四回直木賞を受賞している。

1946年には慶應義塾大学医学部教授。戦後には執筆活動も再開し、翌年には『推理小説叢書』を監修し、のちに定着する「推理小説」という言葉を用いている。1951年(昭和26年)には復刊された「三田文学」の編集委員となり、松本清張らを輩出。
1953年には日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)の第3代会長に就任。1960年(昭和35年)に『頭のよくなる本』発表し、「頭脳パン」を提唱。72歳で死去。

林髞は保阪嘉内と甲府中学の同級生で共に弁論部に所属し校友会雑誌に投稿するなど文芸を語り合った仲間である。この時代のことを林は随筆集『昨日の雪』に「故郷とその中学」という文章を書いている。そこには「甲府中学の五年生ともなると県下の文化を一身に背負うといった観がありその思い出を快いものに思う。校長が大島正健という人で根は自由主義の人、思想上の束縛などは一つもなく内村鑑三、木下尚江などの本を読み、ニーチェやショーペンハウエル、さてはトルストイやドストエフスキーの翻訳を自由に読んだ。キリスト教の教会や芝居や映画などにも自由に出入りした。英語の先生に野尻抱影(大佛次郎の実兄)という人がいて三年生になるとその人から英語を習うのだと言って先輩からいくども聞かされているところを見るとこの人が相当の影響を与えていたであろう。(註 実際は2年の時に転任してしまった)」と書かれている。嘉内と同様に甲府中学での自由な校風と校長や教師達の薫陶、文学や演劇から学んだことが基礎となり文学的才能が開花したのであろう。
その後の二人の交友は続き嘉内が盛岡から帰省する際、東京でも会っていたようだ。

嘉内に宛てた書簡も現存している。嘉内の結婚の通知の返礼としてお祝いの言葉を贈り、「東京に遊びに来た際には寄ってくれるように」とも書いてある。また1933年(昭和8年)の年賀状はレニングラードのパブルフ医学研究所から都下東久留米村の日本青年協会武蔵野道場に送られている。
文学的な交流は明らかではないが、奇しくも嘉内が亡くなった1937年2月に林は直木賞を受賞している。もしそのことを知っていれば友の受賞を嘉内も喜んでいたことであろう。


木々高太郎(1937年)


林髞の書簡(保阪嘉内宛)

■この記事は、実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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保阪嘉内をめぐる人々 (その2) 浅川 巧 [人物に関すること]

保阪嘉内をめぐる人々 (その2)
浅川 巧 1891年~1931年
   朝鮮の土となった日本人 木喰上人、柳宗悦を通しての交流

浅川巧は1891年(明治24年)に山梨県高根町(現北杜市)に生まれる。嘉内の5才上になる。山梨県立農林学校を卒業すると、秋田県の大館営林署に勤務し、1914年(大正3年)、23歳の時に兄の伯教(ノリタカ)を慕って朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課に勤務する。兄・伯教と親交のあった柳宗悦に朝鮮の民芸や工芸を紹介している。

朝鮮にとって厳しい時代背景にもかかわらず、その美しさを生み出した朝鮮民族を敬愛し朝鮮民族のために美術館の設立を計画し「朝鮮民族美術館」を京城の景福宮内に開設する。巧は本業の林業技術者としても活躍し、1922年(大正11年)に林業試験場が設置されると「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発、禿山の緑化などにおいても功績を残した。

1931年(昭和6年)に「朝鮮陶磁名考」を著したが、その年の4月2日、巧は急性肺炎のため、40年の短い生涯を閉じた。生前の巧は朝鮮と朝鮮人を理解することに努め、進んで朝鮮語を学び流ちょうな朝鮮語を話し、日常生活でも朝鮮の民族服や木履を身に付け、心から朝鮮を愛していた。ソウル市郊外の忘憂里にある巧の墓には「朝鮮の山と民芸を愛し韓国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土となる」と韓国語で刻まれ、今なお韓国の人々に敬愛されている。巧については「朝鮮の土となった日本人」高崎宗司(草風館)に詳しくまとめられている。

二人の共通点はまず八ヶ岳山麓の厳しい風土の中で生まれ育ったことである。山梨県の峡北地域といわれるこの地の自然と風土に育まれた感性がそれぞれの立場での活動の原点になったであることが考えられる。もう一つは先祖が俳諧の分野で活躍していたということである。浅川巧の祖父・小尾四友は芭蕉の流れを汲む蕉風蕪庵六世として活躍し俳句や連歌を残している。父が巧の産まれる前に死去したために祖父に育てられたのでその影響は大きい。保阪嘉内の先祖の和秀(1725年から1781年ごろ活躍)は韮崎の俳人としては俳書に初めて名前が出された人物である。また和秀や先祖の俳句(父善作など)は当麻戸神社の献詠額に名前が見られる。二人に中の先祖や地域から育まれた文学的素養を見逃すことはできない。もう一つは二人が会ったという文章は残っていないが共通の知人柳宗悦や小宮山清三らと共に木喰上人の研究を通して関わっていたということである。木喰仏とは山梨県下部町丸畑(現身延町)出身の木喰五行上人が全国を行脚しながら各地に残していった一木造の仏像をいい微笑を浮かべた柔和な像が多い。
浅川巧は柳宗悦、小宮山清三らと共に木喰仏に美術的価値を見出し調査・研究を進めるが、当時山梨日日新聞記者だった保阪嘉内が「木喰仏が世に出づるまで」「木喰上人特集号」などの連載・特集記事に関わっていたという関係がある。
巧は同行しなかったが諏訪長地に柳、小宮山らが講演に行った際に同行し新聞記事を書いたという嘉内の日記も残されている。
そして木喰五行上人研究会に巧も嘉内も名を連ねており研究会で同席していたことも考えられる。巧は朝鮮で木喰仏写真展を開催したり日本に戻っていた際には丹波地方に柳らと調査旅行に出かけている。嘉内は藤井青年訓練所主任時代には「木喰上人の生涯について」の講演も行ったり、日本青年協会の機関誌「アカツキ」にも木喰上人のことを執筆したりしている。巧も嘉内も40歳で亡くなるが、二人をつないでいる共通のものに我々は気づかされるであろう。賢治も木喰仏を知っていたならばおそらく共感するものがあったに違いない。


浅川 巧

■この記事は実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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保阪嘉内をめぐる人々(その1) 山内不二門 [人物に関すること]

シリーズ「保阪嘉内をめぐる人々」
保阪嘉内自身も非常に魅力ある人物ですが嘉内をめぐる人物も非常に興味深い人物がたくさんいます。
そこで、「保阪嘉内をめぐる人々」と題し、嘉内と親交を持ち、共に仕事をした人々にも焦点をあてていきたいと思います。

その1 嘉内と共に農村副業を研究 我が国最初の謄写版発明者 山内不二門  一八六六年(慶応二年)~一九五九(昭和三十四年)

 山内不二門(啓二)は宮城県桃生郡中島村(石巻市中島)に父・新平(神職)、母・やす の子として生まれた。九才の時に父と死別しその後宮城県内及び東京で奉公先を転々とした後に書家と称して学校ごとに看板の揮ごうを請い揮ごう料をもらい放浪していた。
新潟県の虫川村(現糸魚川市)で四年間代用教員をした後宮城県で小学校の訓導の試験に合格し宮城県内の小学校教師を勤めたが真言宗を宣伝したという理由で免職された。
この時僧籍に入り不二門と改名している。

 不二門は放浪の中で勉学に励み、様々なものに関心を持ち自分で身近な材料を使い実験・発明を試みる中で硫化物を和紙に塗り、灰で字を書いたところその部分だけ紙が透けて見えることを発見しこれが毛筆謄写版の発明となった。この原理は鉄筆謄写版や印刷機の原理として生かされている。
 謄写版販売は日露戦争時に急速な売り上げ増加を見、陸海軍用にも活用され全国に十七支店を持つ大気堂へと発展していく。謄写版販売で各地を歩く中で後藤新平(初代満鉄総裁、東京市長)や斉藤実(朝鮮総督府長官、二・二六事件の時の内大臣)とも深い親交を結んだ。
 後藤新平がドイツ土産としてくれた軽便印刷機を日本でも製作するために膠土を作り、コンニャク版といわれる印刷機も発明した。
 昭和52年には全日本謄写印刷連盟から我が国初の謄写版印刷者としての顕彰状が送られている。
その他発明家として海水石けん、砂鉄精練、アミノ酸しょう油等の開発を行った。

 保阪嘉内とは、嘉内の妻・さかゑが雨中につえつく老人を見て傘をさしかけたことが機縁で、豊島区雑司が谷にある山内不二門の家作に移ったことから付き合いが始まる。日本青年協会退職後には農村副業を手がけていきたいと考えていた嘉内と協力して砂鉄精練、アミノ酸しょう油、謄写版の開発と普及を行った。
 不二門は山梨の増富温泉に旅行に来ていたが、韮崎市の嘉内の実家に立ち寄ったり、嘉内の死後にも父善作にあてた手紙が出されていることから保阪家との交流は続いていたと思われる。
 保阪家には不二門の写真、書簡、コンニャク版で刷った印刷物等が残されている。
山内不二門については孫の山内玄人氏(東京都町田市在住)が「伝記山内不二門」「水沢・江差時代の不二門」「若き日の不二門ゆかりの地虫川(新潟県糸魚川市)を歩く」の冊子を製作している。


山内不二門

■この記事は実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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