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保阪庸夫さん、ありがとうございました [人物に関すること]

かねてからご療養中であった保阪庸夫さんが7月5日にご逝去され、7月8日に告別式が行われました。
89歳でした。
さまざまな思いが心の中に去来しますが、言葉になりません。
ここでは、「ありがとうございました」と一言だけ書かせていただきます。

保阪庸夫氏.jpg

心からおくやみ申し上げます。
どうぞ、やすらかに。

※ご遺族の方にご迷惑がかかるのを避けるために、告別式が終わってから記事をアップさせていただきました。
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河本緑石の書簡/書簡4(大正7年7月) [人物に関すること]

【4】大正七年七月七日〔消印大正七年七月九日〕  葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村様方 保阪嘉内様
      盛岡市にて 義行拝
      七月七日(七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也)

嘉内兄、心は静かにさえながら、はらはらとふる夜の雨をききながら。今しがたまで私はまっくらな闇の底を歩いてゐた。私の心が歩いてゐた。
まが/゛\しい灯が闇に浮んでゐた、私の心は何時までも灯を見つめてゐた。淋しい人間の実体を感じたのだ。淋しくもよりあつまって生きてゐる人間――
あーア淋しさがこみあげて来た。
今日も今日とて、宮沢氏は肋莫[ママ]にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと。淋しい限りなく淋しいひびきを持った言葉を残して汽車に乗った。(アザリア発送した)十五日頃東京通過。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。

『アザリアの友へ』30頁(図版四)より。
『友への手紙』119頁にも後半部分(「淋しい人間の」以降)が収録されています。
7月7日の日付がありますが、消印は9日になっているので8日の夜あたりに投函したものでしょうか。
日付の後に「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」と記していますが、これは言うまでもなく『アザリア』第1号発行をうけ、7月7日に同人が集まって行った合評会のあと、興奮のおさまらない賢治・小菅・保阪・河本の4人が8日の午前0時15分から雫石の春木場に向かって徒歩旅行をしたことをさしています。
この徒歩旅行を保阪は「馬鹿旅行」と名付け、『アザリア』第2号では4人がそれぞれに馬鹿旅行に関する作品を載せています。
また、賢治の初期短篇綴の中の「秋田街道」は、この馬鹿旅行を素材にした作品です。
「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」という一文には、その思い出を大切にしている気持ちがよく表れているように思います。
「ほんの1年前のことなのに、何だかずいぶん変わってしまったなあ・・・」
これを書いた河本緑石の心中にも、受け取った保阪嘉内の心中にも、そんな思いが去来したのかも知れません。

この葉書の前半は自身の心情の吐露ですが、後半には近況としてさまざまな事柄を伝えています。
まず「宮沢氏は肋莫にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと」(「肋莫」は原文のママ)という賢治の動静は、河本緑石・保阪嘉内の二人にとってショックな出来事であったことでしょう。
この年(1918年)の15年後といえば1933年・・・奇しくも賢治の没年です。
よく言われることではありますが、何だか自分の寿命を言い当てているようで不思議ですね。
15年という余命の根拠はどこにあるのかわかりませんが、文面は「私のいのちもあと十五年はあるまいと」ですから、賢治はその15年の余命を精一杯生きたという見方もできそうです。

「アザリア発送した」は、6月末ごろ発行された『アザリア』第6号を郵送したということですが、「した」と過去形になっていますから、この葉書を書いた7月7日には発送しているとすれば、葉書を受け取った保阪嘉内の手元には既にその『アザリア』が届いていたことでしょう。
表の「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」は、こうしたことにも関係しているように思います。

そして「十五日頃東京通過」ですが、帰省の途中に東京で会いたいというメッセージではないでしょうか。
『アザリア』を何とか復活(それが実質的には最後の号になるわけですが)したこと、賢治の病気のこと、自分自身のこと、さらには母を亡くし受験にも失敗した保阪嘉内のこと・・・・そうしたいろいろなことを河本緑石は保阪嘉内と一緒に話したかったのだと思います。
そして、実際に2人は東京で会ったのだと思います。
保阪嘉内が河本緑石に宛てた大正7年10月22日付の葉書に「次はいつか品川駅にて立話せし事、即ちア誌先号残部あらバ至急二部御送附被下度願上候」と書かれていますが、この「品川駅にて立話」はそのことではないでしょうか。

このように、1枚の葉書の中にも『アザリア』の友たちのつながりがよく表われているように感じられます。
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河本緑石の書簡/書簡3(大正7年6月) [人物に関すること]

【3】大正七年六月中旬(推定) 葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村方 保阪嘉内様
      ミドリ、高島屋弟。

凍てし地に立つ木しょう/\と風あり、
母とつれて墓までを来夕明りかな、
墓の芥あつめ焼く母と夕べ、
墓より僅に立つ煙暮れてゐたり、
狂人の家に狂人は居らず茶碗が白し、
糸車わくわくと母にめぐりけり、
死んだ児の着物美しう日にほされたり、
とろけし鉄を打ちにうつ鍛冶屋雨の日、
雲を透く光り雪山重なれり、
うすら寒き畠にて生れたり小虫。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。

『アザリアの友へ』29頁(図版三)より。
日付の記入がなく、消印も「日」の部分が消えていて(あるいは極めて薄く)読み取れず、現状では発信日がわかりません。
ただし、差出人を「」と書いてあるのは、前回の書簡【2】で触れた嘉内から歌舞伎「敵討白石噺」の一場面をプリントした5月14日付の絵葉書に対する返信とみて、ここでは「6月中旬」といたしました。
ちなみに「高島屋」とは二代目市川左團次(1880-1940)の屋号で、歌舞伎役者であると同時に小山内薫と共に演劇革新運動を展開した人物です。おそらくは演劇好きの嘉内の贔屓の俳優であったので、緑石はこの書簡で嘉内を「高島屋」と呼んだのでしょう。

裏面には、俳句が10句記されています。
これらの句は『アザリア』第6号に「狂人と茶碗」として掲載されているものですが、『アザリア』発表型ではさらに手が入れられているものもあります。
とりわけ「糸車わくわくと母にめぐりけり」はこのころの緑石の代表作といえるでしょう。緑石の遺句集『大山』の序文で師の荻原井泉水もこの句を「結婚して、新しい家庭生活の恰びを初めて味わった時代」を表現した作品の一つとして取り上げています。
また『アザリア』第6号には、書簡【1】に同封されていた詩2編のうち「一本の草」が掲載されています。

緑石と嘉内の書簡のやりとりからは、『アザリア』第6号が少しずつ形を成していく様子がうかがえるようです。


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河本緑石の書簡/書簡2(大正7年6月8日) [人物に関すること]

【2】大正七年六月八日 葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村方 保阪嘉内様
      7.6.8.夜 茅町鎌田方(移転)河本義行

夜だ。
数知れぬ蛙が夜の闇に浮いて空を向いて鳴いてゐる。からころと張子の様な喉が鳴り出した。その声で、からころとたへまなく転げ出る其の声で、夜はもう一杯になる筈だ。それだのに〔か〕らころとみんな新らしい声だ、何時までも新しくひびく声だ。あーからころと、からころと。
〔以下は散らし書き風に書く〕
闇、闇、闇、闇の追億。
富華のかんざし光。
盛岡、緑、緑、新緑、なやましい
濃い深き緑の奥に光り出した桜桃。
龍泉軒ノサワチャンが帰ッタソーダ
宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル原稿ナカナカ集らぬ。
兄よ、俺は兄に会ひたくなった。アザリを出して見とる。
金のいれば頬ふくらんだ。


(注)住所の「茅町鎌田方」には大きく傍点が付けられています。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。


『アザリアの友へ』28頁(図版二)より。
後半のちらし書き風になっている部分の状況は、『アザリアの友へ』を御覧ください。
5月になると保阪嘉内も東京での生活に慣れ、気を取り直して受験勉強に励む日々を送っていたようです。
歌稿ノート「ひとつのもの」ものには、

  受験生ほど
  図太いものは世にはなし
  やぶれ袴に
  正装すれ
  ども

  神田には
  天才の俊英
  あつまれり
  それで
  おれさへ
  俊才に見ゆ

といった開き直りのような心境が綴られています。
『友への手紙』には、この時期の嘉内について明治大学に籍を置いてと記されているが、それはこうした短歌群の一つに「(明大所見)」との添え書きがあることに拠っています。

  風吹くと
  渋谷郊外の
  新緑は
  そらのまんなかへ
  とけ入りにけり

これも同時期の短歌です。
下宿か、その近くで詠んだものと思われますが、気持ちにも余裕が出てきたように感じられます。
前回紹介した書簡【1】と入れ違いに、嘉内も緑石に歌舞伎「敵討白石噺」の一場面をプリントした絵葉書に「先日カブキ、昨日帝劇の女優劇見物」(緑石宛嘉内書簡・5月14日付)と近況を書き送ってます。

緑石のこの書簡には、「宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル原稿ナカナカ集らぬ」「兄よ、俺は兄に会ひたくなった。アザリヤを出して見とる」と、近況が綴られています。
前回の書簡でアザリアの復活について意欲的に書いたものの、始めてみるとなかなか思うようにいかなかったということでしょう。
賢治は研究生かつ実験助手として学校に残ってはいたものの、小菅ら得業生から原稿を集めることも難しく、緑石の同級生たちの文芸熱もさめてしまったのかも知れません。
そうした焦りの中、既刊の『アザリア』を出して詠みながら緑石が嘉内のことを思っている様子が目に浮かんでくるような書簡です。

前回の書簡では賢治の動静について「〝アザリア〟復活についても話したいのだが、山の中に入ってしまって出て来ない」と記していましたが、この書簡の「宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル」は、ようやく賢治と顔を合わせることができ、『アザリア』復活に向けていよいよ活動が始められるという気持ちを表しているように思えます。『アザリア』6号には嘉内の短歌「東京雑信」と書簡「書信のまゝを」)が掲載されていますが、この書簡【2】にはその件について特に記述がありませんので、「原稿ナカナカ集らぬ」は暗に原稿を催促しているのかも知れません。
『アザリア』6号所載の書簡「書信のまゝを」には「五月廿七日」の日付がありますので、あるいは原稿のやりとりに関する書簡がこの書簡の前後にあり、それが散逸してしまったのかも知れません。

ちなみに『アザリア』6号に、緑石は俳句「島の夕影」、俳句「狂人と茶碗」、詩「青い目」、詩「一本の草」を寄稿している。「(明るいものが)」という断章は「義麻呂」という筆名が遣われていますが、これも筆名からして緑石の作と思われます。おそらくは「原稿ナカナカ集らぬ」ので自作で頁を埋めようとしたのでしょう。賢治は「(峯や谷は)」という断章を寄稿しており、稗貫郡の土性調査で山中を歩き回っていた生活がうかがえます。小菅健吉は渡米までの間、青森県立畜産学校に勤務することになり、多忙であったためか作品の掲載はありません。

なお、住所に「茅町鎌田方(移転)」と記してありますが、この「茅町鎌田方」は嘉内が盛岡で下宿していたところです。
緑石もよく訪れていてなじみがあったため、保阪が4月に出て行って空いた部屋に緑石が移ってきたということなのでしょうか。
茅町は、現在は材木町となっています。
鎌田方.jpg
鎌田方はこのあたりにあったそうです。(2009年 筆者撮影)

発信日は大正7年6月8日。
嘉内は6月下旬の入学試験に向けて勉強に励んでいたことと思われますが、6月16日に母のいまが病気のため逝去するのです。
そして、母の死を契機として嘉内の運命はまた変わっていくのです。
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河本緑石の書簡/書簡1(大正7年5月13日) [人物に関すること]

【1】大正七年五月十三日  封書〔封筒ナシ〕

Kよ、
毎度御便りをいただいて有難う。盛岡も、もう花は末になった。花の盛りに一度便りしようと思ったんだが、何んだか俺には今年の花は美しくなかったやうな気がする。高松も見たし公園の花も見た。盛岡の花時は淋しいものだと思った。公園にあれ程花があるのに花見の宴をはってゐるやつもない。それに今年は花時に雨が多かった。而も一緒に寒さがやって来た。今は八重桜が盛中だ。
今日は初めて初夏らしい天気だ。夏らしい雲が空に霞んで見える。草の芽や、木の芽が眼を出したのは少し前だったが、今はやうやく伸びだした。新緑の香のただようまでには時がある。
春が来て過ぎようとしてゐるんだが、俺には春らしい気分になったやうなおぼえがない。
K君、
君の去った盛岡はひっそりとしたものだ。殊に俺には淋しい。悲痛だ。誰一人話し相手がないよ。一人だってないよ、やつらの頭ん中は砂利と鉋屑とばかりだ、鼻の下に尺八をぶらさげて縮み上ってゐると思へばいゝ。(余談になるが此の頃尺八の大流行だ。)
K君、
限りない孤独が君を捕へた事だらう。やっぱり俺も孤独だ。此の孤独をどこまでも掘り下げて行かうよ。
K君。
宮沢さんが今土性調査で、出張して、盛岡にゐない。〝アザリア〟復活についても話したいのだが、山の中に入ってしまって出て来ない。しんみりと山の中で歩いてゐる事だらう。
K君、
アザリアは私と宮沢さんとで先づ最初の復活号はやるよ。また、東京の方にうつしてもらうかも知れない。原稿をどっさり送って下さい。
あるひは名義だけ東京に移してもよい。原稿〆切りは五月末までにしませう。集り次第すぐ発行します。小菅君の原稿はすぐ集るし、学校内のものは集るわけだし、するけれど、市村さんと、鯉沼さんのが君の方で集まらんだらうか。僕の方でも通知するけれど、君の方で集れば集めて下さい。
K君
小菅君が今月の十日か九日かに盛岡に来た。何んでも日曜だ。県庁の証明がもらへないで、九月頃まで日本にゐるそうだ。で其の間自活しなければならんからって青森の畜産学校の先生になった。
K君。
此の間、モモチヨとフミマルに会った。……………………………………………………………………。
K君、
今度はこんなにずるけないで御便するよ。
原稿は出来しだい御願ひします、早く発行したいんだから。
さらば。
                   義行
  嘉内兄

詩二篇
  □草が生れる
めらめらめらめら、土の音。
草が芽を出すんだ、草が。
ここのこの大きな土の中から。

  □一本の草

一本の草を見ろ、草を。
命のある草を見ろ。
そこにどんなに大きなものがあるか、
  ×
土の底には、大地の命をぢかに吸う根があるんだ。
眼に見えぬやうな白い根が、
ぢっと土の心臓を抱きしめてゐるんだ。
おまへたちはわかるまい、
あの白い根が、
ひらひらひらひら息をする、あの白い根が。
そこに大きな土があるんだ。
大地がしっかりとあるんだ。
  ×
するどく青い草の葉を見ろ。
光を吸ふんだ―光が吸へるんだ。
吸ふがよい吸ふがよい、ここらは光りでいっぱいだ。
若し、太陽の前で其の葉をすかして見るなら。
数へきれない程の脈管が青く透いて見えるだらう。
そこに動いてゐるものを感づるだらう。
それが命だ、
それが命だ。
  ×
ほそ/゛\と伸びあがった茎の上に、
焔のやうに燃えてゐる花。
何んといふ美しさだ。
赤い焔につつまれて、
この美しい花の中にはもう子供が出来てゐるんだ。
眼には見えないけれど
それは球[マル]くて、まことにまことに小さなものだ。
                                        (五、十三、夜)

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。


『アザリアの友へ』23~27頁(図版一)より。本文は29字×12行原稿用紙4枚、「詩二編」は便箋3枚に書かれています。この書簡は『友への手紙』の大正7年の「参考資料」の中にも、本文の大半と詩の一部が紹介されています。

「K」とは、言うまでもなく保阪嘉内のことです。嘉内は『アザリア』5号に載せた「社会と自分」という文章の過激な表現が問題視され、大正7年3月に盛岡高等農林学校から除名の処分を受けました。父親の嘆願もむなしく処分は撤回されず、嘉内は盛岡を去り、札幌もしくは駒場の農科大学(現北海道大学農学部、東京大学農学部)を受験すべく東京で受験勉強を始めることにしました。
このころの大学は秋入学だったので、入学試験は6月に実施されていたのです。
嘉内の『ひとつのもの』と題した歌稿ノートには、嘉内の4月ごろの心情を詠った

  おちぶれて
  桜のしたをあゆみたり
  二度目で
  出たる
  受験生かな

  おれもまた
  かわいさうなり
  をちぶれた
  姿で歩ゆむ
  日がまぶしく照る

  なんぼなんでも
  殺すものなら
  殺して見ろ
  さう
  やすやすと
  死ねるものかよ

  泣かうとしても
  あまりの
  悲しさになけもせず
  又そんな弱い
  言葉も云へず

  もう少し
  元気を出せと
  云ふしたから
  「とても、とても」と
  いきを
  つきてあり

  いそがしさうに
  街を歩んで
  本読めど
  心はつねに
  おだやかならず

  死といふ字を
  四十四書いて
  死んで見たし
  残った人が
  始末するらん

といった歌が綴られています。


保阪嘉内の除名処分の通知が学校の掲示板に貼り出された時、嘉内は山梨の実家に帰省しており、賢治からの知らせを受けて急遽盛岡に戻ってきたのです。この時期、賢治や小菅健吉ら得業(卒業)生以外は帰省していた者が多かったのでしょう。小菅健吉の書簡の中には、自分も(渡米の準備などで)余裕がなく嘉内の除名処分に対して何もできなかったたことや、何もしようとしなかったアザリア同人らに対する思いが綴られています。

嘉内と同じく2年生であった緑石も鳥取に帰省しており、新学期になって学校に戻ってはじめて嘉内が盛岡を去ったことを知ったのだと思います。
この書簡には、嘉内がいなくなった寂しさを綴るとともに、賢治や小菅健吉の動静を伝えています。嘉内が東京での居所を伝えてきた書簡に対する返信と推測されますが、文中に「花の盛りに一度便りしようと思ったんだが」「今度はこんなにずるけないで御便するよ」とあることから、おそらくは4月の半ばごろに嘉内の書簡を受け取り、下旬にその返信を書こうとしたものの、そのまま返信がなかなか書けずに5月半ばになってしまったのでしょう。
嘉内は5月14日付で緑石宛に絵葉書を出していますから、もしかすると緑石がこの長い手紙を書く前にも嘉内からの便り(東京からの第2信)があったのかも知れません。

あくまでも私見ではありますが、緑石の返信が遅くなったのは単純に「ずるけ」ていたのではなく、嘉内に対して何を書いてよいか迷ったためではなかったでしょうか。その末に考えついたことが「〝アザリア〟復活」で、緑石はこれこそが失意の嘉内を元気づける最良の方法だと思ったのではなかったでしょうか。
『アザリア』は嘉内に除名という処分をもたらした元凶という見方もあるでしょうが、緑石は嘉内には書くことが心の支えになると考えたのだと思います。
こうした緑石の呼びかけに嘉内も応え、『アザリア』を復活号(6号)が翌月に刊行されたものの後が続かず、復活号が終刊号になってしまいました。

11213352.jpg
アザリアの友たち(個人蔵・筆者撮影)
左上:保阪嘉内 右上:宮沢賢治
左下:小菅健吉 右下:河本義行(緑石)

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河本緑石の書簡/はじめに [人物に関すること]

保阪嘉内は終生、1冊のスクラップブックを大切にしていました。
その前半は新聞の切り抜きですが、後半には3人の友からの手紙が貼り込まれていました。
その3人とは、いうまでもなく小菅健吉、河本義行(緑石)、宮沢賢治です。

スクラップブックには
「書簡集成(アザリアの三人から)……大正一二・八・三〇迄……」
という表題の頁に続いて
「第一 小菅健吉編」(26頁、58通)
「第二 河本義行編」(18頁、51通)
「第三 宮沢賢治篇」(38頁、73通)
の合計182通の書簡が受け取った順(注)に貼り込まれています。
小菅健吉と宮沢賢治の二人からの書簡は、大正12年8月30日までに手許に届いた分をほぼ網羅していると思われますが、河本義行からの書簡については「第二 河本義行編には散逸せるもの多きを遺憾とするものである」と注記しており、実際にはもっと多くの書簡が存在したものと思われます。

スクラップブックs.jpg
スクラップブック(個人蔵・筆者撮影)

保阪嘉内が何を思って3人の書簡を整理したのかは不明ですが、その2日後に関東大震災が起こり、嘉内は救援物資を持って妹のいる東京に向かいますので、もし8月30日に書簡の整理を思い立たなければ、これらの書簡も散逸してしまっていたかも知れません。
そういう意味では、まさに絶妙なタイミングであったとしか言いようがありません。
なお、その後に受け取った書簡の一部も、スクラップブックの間にはさみこまれています。

宮沢賢治の書簡については、古くは『宮沢賢治 友への手紙』、最近のものでは『新校本宮沢賢治全集』で、小菅健吉の書簡については『氏家町史 史料編 近代の文化人』、河本義行の書簡については『アザリアの友へ 河本緑石書簡集』によって、その全貌を知ることができます。

『アザリアの友へ 河本緑石書簡集』は、1997年に河本静夫氏の編により緑石書簡集刊行会から刊行されたものですが、書簡はすべてコピーによる影印で収録されているため、書簡によっては判読が難しいものもありました。
そこで昨年の秋に講演を依頼されたことを機に『アザリアの友へ』に納められた河本義行書簡と保阪嘉内書簡の全文テキスト化に取り組み、昨年末にその作業を完了しました。
これを元に、このブログで本文とその注釈・解説を連載することを、今年の目標にすることに致しました。
『アザリアの友へ』を読むための参考資料として、またアザリアの友たちの交友を知る手がかりとしてお読みいただければ幸いです。


(注)ただし葉書は4枚をまとめて1頁に貼り込んでいるため、封書と葉書との間で多少前後しているところがあります。
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秋入学に関するエピソード [人物に関すること]

大正7年6月20日付の河本義行宛の葉書に、保阪嘉内はこのように書いています。
「本日郷里より上京、明廿一より受験」

この年の3月、保阪嘉内は盛岡高等農林学校を除名になり、「その後、いちおう明治大学に籍を置いて、駒場または北大を受験しようと決心」します(保阪庸夫・小沢俊郎『宮澤賢治 友への手紙』p112)。
つまり、嘉内は4月から東京帝国大学農科大学もしくは北海道帝国大学農科大学への受験勉強を始めたわけです。
その試験日が6月21日……。
最初に河本義行宛の葉書の文面を見た時には、何らかの形で編入試験でもあったのだろうか――などと思ったものでした。
当時(大正10年まで)の帝国大学が秋入学であったことを知ったのは、その後のことでした。

昨年来、東京大学を中心に春入学から秋入学への移行が取りざたされるようになって、真っ先に思い出したのがこの嘉内の再受験の話でした。
ちなみに、嘉内が受験した盛岡高等農林学校は春入学で、大正5年の入学試験は3月25日から27日にかけて行われていました。
つまり、そのころは高等専門学校と帝国大学とでは試験日や入学時期が違っていたわけです。
帝国大学が秋入学だったために、嘉内は比較的早く気持ちを切りかえることができたのではないかと思います。
これが受験まで1年も間があるという状況であれば、気持ちを切りかえるまでにもっと長い時間がかかったかも知れません。

秋入学を希望する大学に導入することは否定しませんが、全ての大学に秋入学が強制されることは間違っているように感じます。
現在でも春入学と秋入学の併存制を取っている大学もありますし、当時のように春入学の学校と秋入学の学校があってもかまわないのではないでしょうか。
有名大学が秋入学を導入するからといって国や企業の採用試験の時期まで変えるというのは、さらにおかしいような気がしてなりません。
全てが一律……ではなく、個性を認める。その方が、大学も学生も独自性を発揮できるように思います。

ちなみに、保阪嘉内の受験は残念ながら失敗に終わりました。
試験日を目前にした6月16日に母親が病気でこの世を去り、入学試験どころではなかったようです。
冒頭でも引用した河本義行宛の葉書にはこのように書いています。
「帰省以来ろくに睡らないのでばかに頭が痛い、今日一日睡ろうと思ふ」

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「アザリア」の仲間4人の写真 撮影日時・写真館が判明 [人物に関すること]

「アザリア」の仲間4人が写っている象徴的な写真、この写真の撮影日時・写真館が小菅健吉氏の手紙から明らかになったことが盛岡タイムス6月6日付けで報道されています。
手紙は宮沢賢治研究会顧問である杉田英生氏(東京都豊島区在住)あてに1966年9月17日付けで出されたものです。
その手紙にはアザリアの4人の複製写真と共に「当時の写真が出てきたので一枚お送りします」と記し、「大正六年十月三十一日 盛岡市奈良写真館」の注釈があるそうです。
奈良写真館は中の橋のたもとで1902年から1933年まで開業していました。
杉田氏はアザリアの仲間で唯一長命だった小菅健吉氏と66年ごろから亡くなる77年までほぼ毎年訪問し話を聞いていたそうです。

この写真のいきさつは新校本宮沢賢治全集にも掲載されていません。
大正六年十月三十一日といえば、アザリア三号が十月十七日に発行され創作活動にも学生生活にも充実した時期だったでしょう。
誰が「写真館で写真をとろう」と言い出したかわかりません。
しかし当時は大切な時期、節目には写真館で写真を撮る習慣があり、保阪嘉内にも写真館で撮った甲府中学時代の写真が残っています。

この小菅氏から杉田氏への手紙の複製は現在開催中の岩手大学記念展示で公開されています。
また保阪庸夫氏にも複製が贈られる約束になっています。
この手紙の文面から花巻市の賢治記念館で保存されているアザリア1号から6号が
小菅氏から清六氏に寄贈されたことも明らかになっています。
小菅氏は保阪庸夫氏に生前「賢治関係の資料は全て記念館に寄贈した」と語っていることを考えると、更に他の資料の存在も考えられます。

11213352.jpg

一枚の写真を撮るに至った過程、誰が写真館で撮ろうと言い出したか、どんな会話をしながら写真を撮ったか、そして嘉内だけが違う方向を向いて撮った写真にみんなはどんな反応をしめしたか。
考えただけでも楽しくなります。
あなたはどんな状況を想像しますか。

(記:むこうみず)



■補記
「盛岡タイムス」ではセンセーショナルな報道がされているようですが、この写真の撮影日については、『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』の口絵の解説で既に触れられています。
保阪嘉内はこの写真を貼ったアルバムに撮影日を記入しており、写真には奈良写真館の刻印もあります。
『心友・・・』の著者がそれ以上のことを記さなかったのは、掲載にあたって改めて刻印を確認する余裕がなく、「奈良写真館」についても調査ができなかったからですが、この刻印こそが4人が所持していたオリジナルの写真である証(リプリントでは消えてしまいます)と言えるでしょう。
今回の杉田英生氏の発表によって、小菅健吉・保阪嘉内両氏の記録が一致していることが確認できたことは大きな意味があります。
岩手大学での記念展で4家の遺族が揃ったことを機に、今後はこうした相互の資料を関連させた伝記事項の検証が進むことを期待する次第です。

(記:azalea)
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7月18日 [人物に関すること]

大正10年7月18日、嘉内はこう日記に書きました。
「宮澤賢治 面会来」
日記の頁には、それだけしか書かれていません。

0718.jpg

会った二人はいったい何を話したのでしょうか?
そこで何があったのでしょうか?
それは・・・謎です。
ひとそれぞれに自分の思いをのせて想像してみろ、わかる奴にはわかる。
嘉内はそんな風に投げかけているような気もします。


(記:azarea)
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青年教育者としての嘉内 [人物に関すること]

保阪嘉内は、在郷軍人として藤井青年訓練所で地元の青年たちへの教育活動を行います。
その中でも宮沢賢治のことがしばしば語られたようです。
青年教育に従事する中で、嘉内は日本青年協会の活動に次第に魅せられていきます。
全国に農業伝習所を作り、次代の農村を担う人材を育成する・・・嘉内は青年たちに自分の夢を託そうとしたように思えます。

昭和6年9月の下旬、宮沢賢治は東北砕石工場の販売促進のために大きなトランクを持って上京したものの、高熱を出して瀕死状態で東京を後にします。
ちょうど、そんな賢治と入れ替わるように嘉内が上京し、10月から浄牧院という寺院(現・東京都東久留米市)の中に設けられ日本青年協会の武蔵野道場において、青年たちの指導に従事することになります。

昭和7年の7月3日、嘉内は2枚の写真を撮りました。
S7-7-3/道場講習生.jpg
       道場講習生

S7-7-3浄牧院にて.jpg
       浄牧院にて

7人の講習生に囲まれた嘉内・・・いい顔してますよね。
理想の実現に向けて、充実した日々を送っていたに違いありません。
それでは最後にもう一度、嘉内スマイル!!

kanai.jpg

(記:azalea)


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