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河本緑石の書簡/書簡2(大正7年6月8日) [人物に関すること]

【2】大正七年六月八日 葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村方 保阪嘉内様
      7.6.8.夜 茅町鎌田方(移転)河本義行

夜だ。
数知れぬ蛙が夜の闇に浮いて空を向いて鳴いてゐる。からころと張子の様な喉が鳴り出した。その声で、からころとたへまなく転げ出る其の声で、夜はもう一杯になる筈だ。それだのに〔か〕らころとみんな新らしい声だ、何時までも新しくひびく声だ。あーからころと、からころと。
〔以下は散らし書き風に書く〕
闇、闇、闇、闇の追億。
富華のかんざし光。
盛岡、緑、緑、新緑、なやましい
濃い深き緑の奥に光り出した桜桃。
龍泉軒ノサワチャンが帰ッタソーダ
宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル原稿ナカナカ集らぬ。
兄よ、俺は兄に会ひたくなった。アザリを出して見とる。
金のいれば頬ふくらんだ。


(注)住所の「茅町鎌田方」には大きく傍点が付けられています。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。


『アザリアの友へ』28頁(図版二)より。
後半のちらし書き風になっている部分の状況は、『アザリアの友へ』を御覧ください。
5月になると保阪嘉内も東京での生活に慣れ、気を取り直して受験勉強に励む日々を送っていたようです。
歌稿ノート「ひとつのもの」ものには、

  受験生ほど
  図太いものは世にはなし
  やぶれ袴に
  正装すれ
  ども

  神田には
  天才の俊英
  あつまれり
  それで
  おれさへ
  俊才に見ゆ

といった開き直りのような心境が綴られています。
『友への手紙』には、この時期の嘉内について明治大学に籍を置いてと記されているが、それはこうした短歌群の一つに「(明大所見)」との添え書きがあることに拠っています。

  風吹くと
  渋谷郊外の
  新緑は
  そらのまんなかへ
  とけ入りにけり

これも同時期の短歌です。
下宿か、その近くで詠んだものと思われますが、気持ちにも余裕が出てきたように感じられます。
前回紹介した書簡【1】と入れ違いに、嘉内も緑石に歌舞伎「敵討白石噺」の一場面をプリントした絵葉書に「先日カブキ、昨日帝劇の女優劇見物」(緑石宛嘉内書簡・5月14日付)と近況を書き送ってます。

緑石のこの書簡には、「宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル原稿ナカナカ集らぬ」「兄よ、俺は兄に会ひたくなった。アザリヤを出して見とる」と、近況が綴られています。
前回の書簡でアザリアの復活について意欲的に書いたものの、始めてみるとなかなか思うようにいかなかったということでしょう。
賢治は研究生かつ実験助手として学校に残ってはいたものの、小菅ら得業生から原稿を集めることも難しく、緑石の同級生たちの文芸熱もさめてしまったのかも知れません。
そうした焦りの中、既刊の『アザリア』を出して詠みながら緑石が嘉内のことを思っている様子が目に浮かんでくるような書簡です。

前回の書簡では賢治の動静について「〝アザリア〟復活についても話したいのだが、山の中に入ってしまって出て来ない」と記していましたが、この書簡の「宮沢氏帰盛。アザリア直に発行スル」は、ようやく賢治と顔を合わせることができ、『アザリア』復活に向けていよいよ活動が始められるという気持ちを表しているように思えます。『アザリア』6号には嘉内の短歌「東京雑信」と書簡「書信のまゝを」)が掲載されていますが、この書簡【2】にはその件について特に記述がありませんので、「原稿ナカナカ集らぬ」は暗に原稿を催促しているのかも知れません。
『アザリア』6号所載の書簡「書信のまゝを」には「五月廿七日」の日付がありますので、あるいは原稿のやりとりに関する書簡がこの書簡の前後にあり、それが散逸してしまったのかも知れません。

ちなみに『アザリア』6号に、緑石は俳句「島の夕影」、俳句「狂人と茶碗」、詩「青い目」、詩「一本の草」を寄稿している。「(明るいものが)」という断章は「義麻呂」という筆名が遣われていますが、これも筆名からして緑石の作と思われます。おそらくは「原稿ナカナカ集らぬ」ので自作で頁を埋めようとしたのでしょう。賢治は「(峯や谷は)」という断章を寄稿しており、稗貫郡の土性調査で山中を歩き回っていた生活がうかがえます。小菅健吉は渡米までの間、青森県立畜産学校に勤務することになり、多忙であったためか作品の掲載はありません。

なお、住所に「茅町鎌田方(移転)」と記してありますが、この「茅町鎌田方」は嘉内が盛岡で下宿していたところです。
緑石もよく訪れていてなじみがあったため、保阪が4月に出て行って空いた部屋に緑石が移ってきたということなのでしょうか。
茅町は、現在は材木町となっています。
鎌田方.jpg
鎌田方はこのあたりにあったそうです。(2009年 筆者撮影)

発信日は大正7年6月8日。
嘉内は6月下旬の入学試験に向けて勉強に励んでいたことと思われますが、6月16日に母のいまが病気のため逝去するのです。
そして、母の死を契機として嘉内の運命はまた変わっていくのです。
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