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「薤露青」について (その1) [作品に関すること]

今年は全国的に早い梅雨明けとなりました。
(梅雨入りも早かったですが)
「梅雨明け10日」とよく言いますが、毎日晴れて暑い日が続いています。

先日の七夕の夜には、岩手県陸前高田市の「一本松」の上にきれいな天の川が現れたそうです。
賢治さんからのメッセージか・・・などと、つい考えてしまいます。
http://www.asahi.com/national/update/0707/TKY201107070148.html

さて、今回は『春と修羅』第二集から「薤露青(かいろせい)」という大正13(1924)年7月の日付のある作品を取り上げてみました。
この作品は、実は一度鉛筆で下書稿として書かれ、その後に消しゴムで全文が消されてしまったものです。
一旦は書き上げてみたものの、作品として納得がいかず抹消してしまったものでしょうか。
「薤露青」は、こんな詩です。


一六六
       薤露青
               一九二四、七、一七
みをつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ
岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
銀の分子が析出される
  ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
    プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
    ときどきかすかな燐光をなげる……
橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは
この旱天のどこからかくるいなびかりらしい
水よわたくしの胸いっぱいの
やり場所のないかなしさを
はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
そこには赤いいさり火がゆらぎ
蝎がうす雲の上を這ふ
  ……たえず企画したえずかなしみ
    たえず窮乏をつゞけながら
    どこまでもながれて行くもの……
この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた
わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや
うすい血紅瑪瑙をのぞみ
しづかな鱗の呼吸をきく
  ……なつかしい夢のみをつくし……
 
声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ……あの力いっぱいに
    細い弱いのどからうたふ女の声だ……
杉ばやしの上がいままた明るくなるのは
そこから月が出やうとしてゐるので
鳥はしきりにさはいでゐる
  ……みをつくしらは夢の兵隊……
南からまた電光がひらめけば
さかなはアセチレンの匂をはく
水は銀河の投影のやうに地平線までながれ
灰いろはがねのそらの環
  ……あゝ いとしくおもふものが
    そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
    なんといふいゝことだらう……
かなしさは空明から降り
黒い鳥の鋭く過ぎるころ
秋の鮎のさびの模様が
そらに白く数条わたる


おそらく作者は、橋の上にでも立って遥か地平線まで続いて、薄明の空に続いているような川の流れを眺めながら思いにふけっていたのでしょう。
「賢治の事務所」では天文学的な見地から「賢治の創作の原風景は19時頃から20時頃と判断できるでしょう」と考察しています【注1】。
南十字、プリオシンコースト、マヂェランの星雲、蝎・・・と、一見してわかるように『銀河鉄道の夜』に共通するモチーフがこの詩にはあります。
この詩では「みをつくし」いう言葉【注2】が何度か出てきますが、これは「銀河鉄道の夜」の中の三角標のイメージの原形でもあるような気がします。

そして、この詩には「亡くなった妹」への思いが語られています。
この時期、賢治は大正11年に亡くなった妹のトシさんを追慕する詩をいくつか書いています。
「薤露青」もまた、そうした作品の一つと考えられます。
大正13年は妹・トシの三回忌の年であり、お盆も近づくこの時期、亡き妹への追慕の気持ちが強いものになっていたのかも知れません。

「銀河鉄道の夜」の初期形(第一次稿)が、「薤露青」と同じ大正13年の秋から暮れにかけて執筆されていたとすれば、「薤露青」はその先駆的作品と見ることもできるでしょう。
そう考えると、天沢退二郎氏が述べられているように、妹の死が「銀河鉄道の夜」の創作のモメント(動機)であったとするのはきわめて自然な読みであると思うのです。
「薤露青」で得た着想に、さまざまなエピソードや科学的な知識、自らの宗教論・人生論、亡き妹への思いから熟成されていった死生観……それらを加味して創作した物語が「銀河鉄道の夜」であったのではないでしょうか。
「銀河鉄道の夜」は、そうした〝作品〟として読むべきだと思うのです。

これをジョバンニを賢治自身、カムパネルラを妹・トシに重ねて読んだりすると、兄妹の〝近親相姦伝説〟のような変な誤解まで生まれてしまいます。
ましてや、親友・保阪嘉内との訣別を創作のモメントとし、ジョバンニを賢治自身、カムパネルラを保阪嘉内として、二人の〝同性愛〟的な解釈からこの作品を理解しようとする菅原千恵子氏のような見方には、疑問を感じないではいられません。
そもそも保阪嘉内との訣別というのは小沢俊郎氏による一つの学説に過ぎず、その根拠を検証すれば訣別などなかったと見る方がよほど妥当です。
二人の「訣別」がなかったとすれば、菅原氏の論は前提からして崩れてしまいます。
天沢退二郎氏も言っているように、現実と作品とは厳しく峻別されるべきでしょう。
素材としての現実と作品の中の世界は部分的には重なるところがあったとしても、全体的にイコールではないはずなのですから。
もっと作品を〝作品〟として大切に読んで欲しい・・・と、賢治ファンの一人としては願うばかりです。


【注】
(1)http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h4/19240717.htm
(2)澪標。航路を示す標識のこと。
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