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嘉内忌と「注文の多いロールケーキ」 [その他(雑感など)]
2月8日は保阪嘉内の命日、嘉内忌です。
嘉内は1937(昭和12)年2月8日に亡くなっていますので、逝去後73年が過ぎたことになります。
嘉内をしのんで何か・・・と思い、前から気になっていたプティ シュシュ タナカの「注文の多いロールケーキ オリザ」を食べてみることにしました。

これが箱です。
林風舎の許諾を得て賢治のシルエットがあしらわれています。
また、側面には
賢治さんの作品にはよく西洋料理が登場します。
当時珍しかった洋菓子も良く知っていました。
チョコレイトやキャラメルは登山や散策に持参していたようです。
賢治さんがもし田中さんのサブレやロールケーキを食べていたなら
新しい作品が出来ていたかもしれませんね。
との宮澤和樹さんのメッセージも印刷されています。
箱を開けてみると、

こんな感じです。
一見ごくふつうのロールケーキに見えますが、材料に小麦粉とバターを使わず、小麦粉の代わりに岩手県産あきたこまちの米粉が使われているそうです。
ただし普通のロールケーキよりも柔らかい上に弾力があるので、カットには注意が必要です。
そのため「絹生地・オリザをきれいにカットする為には」というタナカさんからの「注文の多い」説明書が入っています。
さっそくいただいてみると、もちもちした食感で甘さも控え目、後口がとてもさっぱりしています。
農業・食糧政策は迷走中の感をぬぐえませんが、賢治や嘉内の「よい米がたくさん取れるように」という願いを思いうかべながら頂戴いたしました。
(記:azalea)
嘉内は1937(昭和12)年2月8日に亡くなっていますので、逝去後73年が過ぎたことになります。
嘉内をしのんで何か・・・と思い、前から気になっていたプティ シュシュ タナカの「注文の多いロールケーキ オリザ」を食べてみることにしました。

これが箱です。
林風舎の許諾を得て賢治のシルエットがあしらわれています。
また、側面には
賢治さんの作品にはよく西洋料理が登場します。
当時珍しかった洋菓子も良く知っていました。
チョコレイトやキャラメルは登山や散策に持参していたようです。
賢治さんがもし田中さんのサブレやロールケーキを食べていたなら
新しい作品が出来ていたかもしれませんね。
との宮澤和樹さんのメッセージも印刷されています。
箱を開けてみると、
こんな感じです。
一見ごくふつうのロールケーキに見えますが、材料に小麦粉とバターを使わず、小麦粉の代わりに岩手県産あきたこまちの米粉が使われているそうです。
ただし普通のロールケーキよりも柔らかい上に弾力があるので、カットには注意が必要です。
そのため「絹生地・オリザをきれいにカットする為には」というタナカさんからの「注文の多い」説明書が入っています。
さっそくいただいてみると、もちもちした食感で甘さも控え目、後口がとてもさっぱりしています。
農業・食糧政策は迷走中の感をぬぐえませんが、賢治や嘉内の「よい米がたくさん取れるように」という願いを思いうかべながら頂戴いたしました。
(記:azalea)
さいたま文学館の収蔵品展「文学館に猫大集合」 [イベント(展覧会・講演会・研究会など)]
賢治の事務所さんの「緑いろの通信」1月号1月14日の記事でさりげなく紹介されていた、さいたま文学館の収蔵品展「文学館に猫大集合」が、昨日(1月23日)から始まっています。
独特な猫の版画で知られる大野隆司さんの作品を中心に、収蔵品の中から選りすぐった猫をテーマにした作品140点(そのうち大野さんの版画を数えてみたら67点ありました)が展示されています。
さいたま文学館といえば、かつて「宮沢賢治と『アザリア』の友たち」という企画展がありましたが、今回の「文学館に猫大集合」でも賢治にこだわったコーナーがありました。
岩波少年文庫『風の又三郎』をお持ちの方も多いと思いますが、大野隆司さんはその表紙や扉の絵(もちろん版画です)をお描きになっています。
この本の装画には猫が1か所だけ描かれています。
お持ちの方はおわかりでしょうが、そうです、「セロ弾きのゴーシュ」です。
展示室には『セロ弾きのゴーシュ』の扉絵の原画がしっかり飾ってありました。

併せて「セロ弾きのゴーシュ」の猫が登場する部分の本文と賢治の自筆原稿(複製ではありますが)が対照できるようになっています。
収蔵品展「文学館に猫大集合」は3月14日まで開催されています。
詳しい内容は、さいたま文学館のブログからごらんください。
(記:azalea)
独特な猫の版画で知られる大野隆司さんの作品を中心に、収蔵品の中から選りすぐった猫をテーマにした作品140点(そのうち大野さんの版画を数えてみたら67点ありました)が展示されています。
さいたま文学館といえば、かつて「宮沢賢治と『アザリア』の友たち」という企画展がありましたが、今回の「文学館に猫大集合」でも賢治にこだわったコーナーがありました。
岩波少年文庫『風の又三郎』をお持ちの方も多いと思いますが、大野隆司さんはその表紙や扉の絵(もちろん版画です)をお描きになっています。
この本の装画には猫が1か所だけ描かれています。
お持ちの方はおわかりでしょうが、そうです、「セロ弾きのゴーシュ」です。
展示室には『セロ弾きのゴーシュ』の扉絵の原画がしっかり飾ってありました。
併せて「セロ弾きのゴーシュ」の猫が登場する部分の本文と賢治の自筆原稿(複製ではありますが)が対照できるようになっています。
収蔵品展「文学館に猫大集合」は3月14日まで開催されています。
詳しい内容は、さいたま文学館のブログからごらんください。
(記:azalea)
宮澤賢治センター2月の定例研究会 [イベント(展覧会・講演会・研究会など)]
岩手大学宮澤賢治センターの2月の定例研究会が下記のとおり開催されます。
お近くの方はぜひどうぞ!
2月定例研究会
日 時 2010年2月15日(金) 17:00~18:00
話 題 「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友たち」に参加して
話題提供者 大塚尚寛(岩手大学副学長)
会 場 岩手大学農学部1号館1号会議室
★終了後希望者によりミニ茶話会 18:00~19:00
詳しくはこちらへ
(記:azalea)
お近くの方はぜひどうぞ!
2月定例研究会
日 時 2010年2月15日(金) 17:00~18:00
話 題 「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友たち」に参加して
話題提供者 大塚尚寛(岩手大学副学長)
会 場 岩手大学農学部1号館1号会議室
★終了後希望者によりミニ茶話会 18:00~19:00
詳しくはこちらへ
(記:azalea)
とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く [作品に関すること]
「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という賢治の詩「習作」に書かれているものと同じ詩句が、保阪家で歌われてきた家庭歌の歌詞の一節にもなっていることについては、2006年に講演の中で触れたことがありますので、ご記憶のある方もあるかも知れません。


そのころはこの詩句を賢治と嘉内をつなぐものとして論じようというような人はほかにいなかったのですが、このところsignalessさんやhamagakiさんのブログでずいぶん話題になり、私の話も出てきました。そこで、私の考えを間違って受け取られないように、その時に話したこと(といっても十分な根拠がないため余談のようなものですが)を一通り記しておこうと思います。
十分に原稿を練る余裕がなく、雑駁なもので恐縮ですがご覧いただければ幸いです。
「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」
賢治は、「カルメン」の劇中歌の一つである北原白秋作の「恋の鳥」の1番(捕へて見ればその手から/小鳥は空へ飛んでゆく)と3番(捕えよとすれば飛んでゆく/逃げよとすれば飛びすがり)をミックスしたような詩句を「習作」の中に記しました(註1)。
これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。
私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。
ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。
しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。
そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。
ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。
大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。
おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。
その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。
賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。
もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。
さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえばsignalessさんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。
そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。
この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。
(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)
「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」
この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。
嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。
それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。
このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。
要は、
(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか
(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる
ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。
また、保阪家の家庭歌には上田敏の『海潮音』の詩句(ウィルヘルム・アレント原作の「わすれなぐさ」)も取り入れられていますし、家庭歌の旋律は「恋の鳥」とは全く異なるもの(強いて言えば「精神歌」に似ているように感じます)ですので、きちんと論ずるにはそのあたりの考察も必要になってくるでしょう。
現時点では思いつきのようなものにすぎませんが、私はこんなふうに考えています。
「恋の鳥」についてはこちらをごらんください。
(註1)
d-scoreには『世界音楽全集19「流行歌曲集」』(昭和6年発行)掲載の歌詞が転載されており、本稿では暫定的にこれに従っています。それを見ると北原白秋の「恋の鳥」の3番は「とらよとすれば・・・」ではなく、「捕えよとすれば・・・」となっています。
hamagakiさんからのコメントには、この歌詞は誤りとの御指摘がありますが、d-scoreの誤りと断じるには第一に出典である『世界音楽全集19「流行歌曲集」』と照合する必要があります。
(当時の曲譜集ではそのように記されて流布しているのかもしれませんので、いずれ確認はしたいと考えています)
もし元の歌詞が「捕えよとすれば・・・」であるならば、この部分の違いにも留意する必要があるでしょう。
(註2)
賢治の12月31日付けの書簡に応じて嘉内がすぐさま上京し、一緒に「カルメン」を見たとすれば、ぎりぎり1月4日の公演には間に合うでしょうか。もし嘉内は間に合わなかったとしても、賢治だけでも「カルメン」を見たかも知れません(このことについてはhamagakiさんのブログに詳しい考察があります)。その時、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って覚えたとしても、『春と修羅』執筆時には正しい歌詞を知り得ていたと思われますので、普通なら「習作」には正しい歌詞が記されるはずです。そういう意味で、「習作」に引用(?)された詩句は、賢治から嘉内へのメッセージであり、嘉内は『春と修羅』を読むことによってそのメッセージを受け取り、歌にしたと私は考えています。
テレビやラジオのなかった時代、レコードや弾き語りなどを通じて「恋の鳥」が巷で流行するにはある程度の時間がかかることを考慮すると、二人とも「カルメン」を見なかったと考えるならば、二人の再会は少し間をおいて2月とか3月のことであったような気がします。
なお、嘉内が少なくとも新聞記者時代に「恋の鳥」の正しい歌詞を知っていたことは、この歌が妻のさかゑさんの愛唱歌の一つであったことからみても間違いないでしょう。にもかかわらず家庭歌の歌詞が「習作」の詩句と同じであるということは、そこに嘉内の意図が反映されていると見るべきでしょう。
(記:sora)


そのころはこの詩句を賢治と嘉内をつなぐものとして論じようというような人はほかにいなかったのですが、このところsignalessさんやhamagakiさんのブログでずいぶん話題になり、私の話も出てきました。そこで、私の考えを間違って受け取られないように、その時に話したこと(といっても十分な根拠がないため余談のようなものですが)を一通り記しておこうと思います。
十分に原稿を練る余裕がなく、雑駁なもので恐縮ですがご覧いただければ幸いです。
「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」
賢治は、「カルメン」の劇中歌の一つである北原白秋作の「恋の鳥」の1番(捕へて見ればその手から/小鳥は空へ飛んでゆく)と3番(捕えよとすれば飛んでゆく/逃げよとすれば飛びすがり)をミックスしたような詩句を「習作」の中に記しました(註1)。
これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。
私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。
ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。
しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。
そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。
ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。
大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。
おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。
その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。
賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。
もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。
さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえばsignalessさんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。
そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。
この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。
(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)
「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」
この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。
嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。
それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。
このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。
要は、
(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか
(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる
ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。
また、保阪家の家庭歌には上田敏の『海潮音』の詩句(ウィルヘルム・アレント原作の「わすれなぐさ」)も取り入れられていますし、家庭歌の旋律は「恋の鳥」とは全く異なるもの(強いて言えば「精神歌」に似ているように感じます)ですので、きちんと論ずるにはそのあたりの考察も必要になってくるでしょう。
現時点では思いつきのようなものにすぎませんが、私はこんなふうに考えています。
「恋の鳥」についてはこちらをごらんください。
(註1)
d-scoreには『世界音楽全集19「流行歌曲集」』(昭和6年発行)掲載の歌詞が転載されており、本稿では暫定的にこれに従っています。それを見ると北原白秋の「恋の鳥」の3番は「とらよとすれば・・・」ではなく、「捕えよとすれば・・・」となっています。
hamagakiさんからのコメントには、この歌詞は誤りとの御指摘がありますが、d-scoreの誤りと断じるには第一に出典である『世界音楽全集19「流行歌曲集」』と照合する必要があります。
(当時の曲譜集ではそのように記されて流布しているのかもしれませんので、いずれ確認はしたいと考えています)
もし元の歌詞が「捕えよとすれば・・・」であるならば、この部分の違いにも留意する必要があるでしょう。
(註2)
賢治の12月31日付けの書簡に応じて嘉内がすぐさま上京し、一緒に「カルメン」を見たとすれば、ぎりぎり1月4日の公演には間に合うでしょうか。もし嘉内は間に合わなかったとしても、賢治だけでも「カルメン」を見たかも知れません(このことについてはhamagakiさんのブログに詳しい考察があります)。その時、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って覚えたとしても、『春と修羅』執筆時には正しい歌詞を知り得ていたと思われますので、普通なら「習作」には正しい歌詞が記されるはずです。そういう意味で、「習作」に引用(?)された詩句は、賢治から嘉内へのメッセージであり、嘉内は『春と修羅』を読むことによってそのメッセージを受け取り、歌にしたと私は考えています。
テレビやラジオのなかった時代、レコードや弾き語りなどを通じて「恋の鳥」が巷で流行するにはある程度の時間がかかることを考慮すると、二人とも「カルメン」を見なかったと考えるならば、二人の再会は少し間をおいて2月とか3月のことであったような気がします。
なお、嘉内が少なくとも新聞記者時代に「恋の鳥」の正しい歌詞を知っていたことは、この歌が妻のさかゑさんの愛唱歌の一つであったことからみても間違いないでしょう。にもかかわらず家庭歌の歌詞が「習作」の詩句と同じであるということは、そこに嘉内の意図が反映されていると見るべきでしょう。
(記:sora)
八ヶ岳エスペラント館 [その他(雑感など)]
思うところあってエスペラント語について調べていたら、八ヶ岳山麓に「八ヶ岳エスペラント館」という施設があることを発見しました。
八ヶ岳エスペラント館は、日本エスペラント学会によって図書館を中心とする国際語エスペラントの研修所兼資料館として1994年10月に開設されたものだそうで、当直の方がいる日には一般公開もされているとのことです。
もちろん、この施設の建設に関わった日本エスペラント学会の方々は賢治と嘉内のことを意識してこの地を選んだわけではないでしょうが、何となく不思議な縁を感じてしまいます。
詳しくは下記をどうぞ。
http://www.geocities.jp/yatu_domo/
(記:azalea)
八ヶ岳エスペラント館は、日本エスペラント学会によって図書館を中心とする国際語エスペラントの研修所兼資料館として1994年10月に開設されたものだそうで、当直の方がいる日には一般公開もされているとのことです。
もちろん、この施設の建設に関わった日本エスペラント学会の方々は賢治と嘉内のことを意識してこの地を選んだわけではないでしょうが、何となく不思議な縁を感じてしまいます。
詳しくは下記をどうぞ。
http://www.geocities.jp/yatu_domo/
(記:azalea)
石鳥谷賢治の会板垣寛さん夫婦韮崎訪問 [その他(雑感など)]
11月9日岩手県花巻市石鳥谷町の石鳥谷賢治の会会長の板垣寛さんご夫婦が韮崎を訪問されました。
板垣さんは知人から「友への手紙」を譲っていただき保阪嘉内の故郷を訪問したいとかねてから考えていたところ、大月市の友人を介して連絡があり今回の訪問に至りました。
韮崎市民会館で清水会長と懇談した後、花園農村の碑、保阪嘉内墓所、保阪嘉内生家、保阪庸夫氏宅で賢治からの手紙の見学をされました。
石鳥谷は賢治のゆかりが深い所、板垣さんのお父さん亮一さんは花巻農学校に開設された岩手国民高等学校での宮沢賢治の教え子であり、石鳥谷には1918年4月末から5月にかけて土性調査に訪れた際葛丸川で作った短歌が残されていたり、1928年3月15日から1週間にわたって、石鳥谷町の通称「塚の根肥料相談所」において、多数の農民を対象に肥料相談を行いその企画と準備にあたったのは、元教え子で石鳥谷に住む菊池信一であったことなどの記録が残されています。
またその際、詩「三月」を作っています。
石鳥谷にはその2つの碑が石鳥谷賢治の会の手で建立されていて、その中心になったのが板垣さんです。
会の多彩な活動と板垣さんの熱意に感銘を受け、今後ともアザリア記念会と連帯していくことを約束してお別れしました。
わざわざ韮崎までお越し頂き本当にありがとうございました。
今後の活躍を祈っております。

花巻市石鳥谷町道の駅「石鳥谷」構内にある詩三月 詩碑

花巻市石鳥谷町大瀬川 葛丸ダム湖畔にある葛丸歌碑
葛丸
ほしぞらは
しづにめぐるを
わがこゝろ
あやしきものにかこまれて立つ。
賢治

賢治先生と石鳥谷の人々 板垣寛著

保阪庸夫氏宅にて賢治からの手紙を見学する板垣夫妻
(記:むこうみず)
板垣さんは知人から「友への手紙」を譲っていただき保阪嘉内の故郷を訪問したいとかねてから考えていたところ、大月市の友人を介して連絡があり今回の訪問に至りました。
韮崎市民会館で清水会長と懇談した後、花園農村の碑、保阪嘉内墓所、保阪嘉内生家、保阪庸夫氏宅で賢治からの手紙の見学をされました。
石鳥谷は賢治のゆかりが深い所、板垣さんのお父さん亮一さんは花巻農学校に開設された岩手国民高等学校での宮沢賢治の教え子であり、石鳥谷には1918年4月末から5月にかけて土性調査に訪れた際葛丸川で作った短歌が残されていたり、1928年3月15日から1週間にわたって、石鳥谷町の通称「塚の根肥料相談所」において、多数の農民を対象に肥料相談を行いその企画と準備にあたったのは、元教え子で石鳥谷に住む菊池信一であったことなどの記録が残されています。
またその際、詩「三月」を作っています。
石鳥谷にはその2つの碑が石鳥谷賢治の会の手で建立されていて、その中心になったのが板垣さんです。
会の多彩な活動と板垣さんの熱意に感銘を受け、今後ともアザリア記念会と連帯していくことを約束してお別れしました。
わざわざ韮崎までお越し頂き本当にありがとうございました。
今後の活躍を祈っております。

花巻市石鳥谷町道の駅「石鳥谷」構内にある詩三月 詩碑

花巻市石鳥谷町大瀬川 葛丸ダム湖畔にある葛丸歌碑
葛丸
ほしぞらは
しづにめぐるを
わがこゝろ
あやしきものにかこまれて立つ。
賢治

賢治先生と石鳥谷の人々 板垣寛著
保阪庸夫氏宅にて賢治からの手紙を見学する板垣夫妻
(記:むこうみず)
心友 私たちの先輩保阪嘉内と宮沢賢治 韮崎北東小心の教育公開授業(その1) [その他(雑感など)]
10月20日(火)、韮崎北東小6学年に標題の授業を行いました。
今回は風の又三郎に扮した向山三樹先生が(写真は銀河の集いを見てください)木枯らしの音と共に登場、続けて保阪嘉内次男の保阪庸夫氏が登場。
保阪嘉内の生涯と宮沢賢治との親交、賢治作品の中の嘉内の姿、賢治からの手紙についてパワーポイントの映像と又三郎、保阪庸夫氏のお話しを交えて進行しました。
「二人の電信柱」の話、「ハレー彗星」の話、賢治から嘉内への手紙「しっかりやりませう」「どうか一所に参らせてください、ただ一人の友よ」や北東小のある駒井村に送られた43通の手紙のこと、「風野又三郎」にある八ヶ岳、富士川の話、「銀河鉄道の夜」の文章の中の嘉内に宛てた手紙の文章と類似する内容のこと、そして保阪嘉内が韮崎北東小の先輩であることなど子どもたちの興味をひく内容ばかりでした。
図書館司書の中山先生の「どんぐりと山猫」のかねた一朗からのでっかい葉書、賢治から嘉内に宛てた手作りの?本物の葉書を紹介しながら賢治作品の紹介。
6年生の先生方の賢治作品の紹介など盛りだくさんの内容でした。
子どもたちは国語で「やまなし」の学習をしていることもありとても興味深く聞いていました。
感想の一部を紹介します。とてもすてきな感想が100枚もあるので何回かにわけて紹介します。
賢治と嘉内の学習をして 韮崎北東小6年 その1
授業参観で賢治と嘉内のことをいろいろと知ることができてとってもよかったです。賢治と嘉内の仲の良さはこの世の中でだれもこえることはできないくらいの仲だと思います。
写真を見てもなんとなく顔も似ているなと思います。しかも兄弟みたいにも見えてきます。嘉内さんが山梨県韮崎市出身なので僕たちのほこりでもあるし自慢でもあります。賢治さんの作品を見てみたくもなるし読んでみたくもなります。今度賢治さんと嘉内さんの事をもちょっと調べてみたいです。
今回の授業を受けてぼくは知らないことがたくさんありました。まず最初は賢治さんと嘉内さんは遠く離れていてもずっと心友だったことです。次は手紙です。賢治と嘉内が何通も何通も手紙を送り返していたことです。とくに賢治が嘉内に何回も同じ事を書いて送っていたことです。風の又三郎の話も聞きやすくわかりやすくてよかったです。今度から宮沢賢治の本をたくさん読んでみたいと思いました。もっと賢治と先ぱいの嘉内が好きになりました。
本当に受けてよかったです。
私は賢治と嘉内の関係を知って遠く離れた所でも文通をしていることに深い友情を感じました。それに韮崎市民の人が賢治さんと深い友情を築きあげたことに、同じ韮崎市民でありそう遠くない所で世の中を平和にしようとしていたことにほこりを感じます。また、自分もそのように生きていけたらどれほどいいかと感じました。さらに保阪嘉内さんの母校がわが韮崎北東小であることにとてもおどろきました。賢治さんが書いた雨ニモマケズの通りに世界の人々が生きていけば幸せになると思います。賢治さんと嘉内さんの考えていたことがとてもよくわかった気がします。
私は賢治さんと嘉内さんの事は知っていたけど知らないこともあったのでとても勉強になりました。たとえば「アザリア」。初めて聞いたときに「どっかの国の村かな」と思いました。でも実は本でした。ほかにも嘉内さんが書いた電信柱の絵や賢治さんからの手紙など二人のことを知っているようで知らないことがたくさんありました。
先生たちの話を聞いて賢治さんの本は賢治さんの心なのではないかと思いました。理由はそうでなくては嘉内さんへの手紙の内容とかは書かないからだと思います。伝えたいこと、心そのものを文にあらわしたもの。そんな物なんじゃないかと思いました。

司書の中山先生、後ろは保阪庸夫氏

多くの保護者や地域の方が参観しました
このような授業も今年で3回目で定着しつつあります。私たちの先輩保阪嘉内と賢治のことを学んだ子どもたちはますます賢治作品を好きになり、その中に嘉内とめざした「ほんとうの幸せ」「世界全体の幸せ」を感じ取ることでしょう。

山口先生のおすすめ注文の多い料理店

山本先生おすすめグスコーブドリの伝記

浅川先生おすすめセロひきのゴーシュ
(記:むこうみず)
今回は風の又三郎に扮した向山三樹先生が(写真は銀河の集いを見てください)木枯らしの音と共に登場、続けて保阪嘉内次男の保阪庸夫氏が登場。
保阪嘉内の生涯と宮沢賢治との親交、賢治作品の中の嘉内の姿、賢治からの手紙についてパワーポイントの映像と又三郎、保阪庸夫氏のお話しを交えて進行しました。
「二人の電信柱」の話、「ハレー彗星」の話、賢治から嘉内への手紙「しっかりやりませう」「どうか一所に参らせてください、ただ一人の友よ」や北東小のある駒井村に送られた43通の手紙のこと、「風野又三郎」にある八ヶ岳、富士川の話、「銀河鉄道の夜」の文章の中の嘉内に宛てた手紙の文章と類似する内容のこと、そして保阪嘉内が韮崎北東小の先輩であることなど子どもたちの興味をひく内容ばかりでした。
図書館司書の中山先生の「どんぐりと山猫」のかねた一朗からのでっかい葉書、賢治から嘉内に宛てた手作りの?本物の葉書を紹介しながら賢治作品の紹介。
6年生の先生方の賢治作品の紹介など盛りだくさんの内容でした。
子どもたちは国語で「やまなし」の学習をしていることもありとても興味深く聞いていました。
感想の一部を紹介します。とてもすてきな感想が100枚もあるので何回かにわけて紹介します。
賢治と嘉内の学習をして 韮崎北東小6年 その1
授業参観で賢治と嘉内のことをいろいろと知ることができてとってもよかったです。賢治と嘉内の仲の良さはこの世の中でだれもこえることはできないくらいの仲だと思います。
写真を見てもなんとなく顔も似ているなと思います。しかも兄弟みたいにも見えてきます。嘉内さんが山梨県韮崎市出身なので僕たちのほこりでもあるし自慢でもあります。賢治さんの作品を見てみたくもなるし読んでみたくもなります。今度賢治さんと嘉内さんの事をもちょっと調べてみたいです。
(Tくん)
今回の授業を受けてぼくは知らないことがたくさんありました。まず最初は賢治さんと嘉内さんは遠く離れていてもずっと心友だったことです。次は手紙です。賢治と嘉内が何通も何通も手紙を送り返していたことです。とくに賢治が嘉内に何回も同じ事を書いて送っていたことです。風の又三郎の話も聞きやすくわかりやすくてよかったです。今度から宮沢賢治の本をたくさん読んでみたいと思いました。もっと賢治と先ぱいの嘉内が好きになりました。
本当に受けてよかったです。
(Oくん)
私は賢治と嘉内の関係を知って遠く離れた所でも文通をしていることに深い友情を感じました。それに韮崎市民の人が賢治さんと深い友情を築きあげたことに、同じ韮崎市民でありそう遠くない所で世の中を平和にしようとしていたことにほこりを感じます。また、自分もそのように生きていけたらどれほどいいかと感じました。さらに保阪嘉内さんの母校がわが韮崎北東小であることにとてもおどろきました。賢治さんが書いた雨ニモマケズの通りに世界の人々が生きていけば幸せになると思います。賢治さんと嘉内さんの考えていたことがとてもよくわかった気がします。
(Yさん)
私は賢治さんと嘉内さんの事は知っていたけど知らないこともあったのでとても勉強になりました。たとえば「アザリア」。初めて聞いたときに「どっかの国の村かな」と思いました。でも実は本でした。ほかにも嘉内さんが書いた電信柱の絵や賢治さんからの手紙など二人のことを知っているようで知らないことがたくさんありました。
先生たちの話を聞いて賢治さんの本は賢治さんの心なのではないかと思いました。理由はそうでなくては嘉内さんへの手紙の内容とかは書かないからだと思います。伝えたいこと、心そのものを文にあらわしたもの。そんな物なんじゃないかと思いました。
(Mさん)
司書の中山先生、後ろは保阪庸夫氏
多くの保護者や地域の方が参観しました
このような授業も今年で3回目で定着しつつあります。私たちの先輩保阪嘉内と賢治のことを学んだ子どもたちはますます賢治作品を好きになり、その中に嘉内とめざした「ほんとうの幸せ」「世界全体の幸せ」を感じ取ることでしょう。
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(記:むこうみず)
岩手県立図書館「第29回 賢治資料展」のお知らせ [イベント(展覧会・講演会・研究会など)]
企画展「第29回 賢治資料展」
アザリア記念会もパネル展示に協力
岩手県立図書館の依頼により「賢治資料展」にパネル展示の協力をしています。
宮沢賢治と親交のあった人物として「保阪嘉内の生涯」や「賢治からの手紙」「植物園にて」のパネルや写真などを展示しています。
多くの方が参観し保阪嘉内への関心も高まっているそうです。
以下は岩手県立図書館のホームページから抜粋。

日 時 10月27日(火)~11月24日(火)
※最終日は17時まで。
会 場 4階 企画展示コーナー ほか
内 容 今回の『賢治資料展』では、「第63回 読書週間」にあわせ、当館が過去2年間(2007年8月から2009年7月まで)に新しく収集した宮沢賢治関連資料を紹介するとともに、展示コーナーをはじめ、館内各所で賢治に関する展示を行います。
賢治の描いた「ほし」や、彼との親交を通して互いに影響を与えあった「人々」についての紹介等、今回も多彩なテーマに沿ってお送りいたします。
皆さまお誘い合わせのうえ、ぜひお越しください。
以下、展示風景です。



(記:むこうみず)
アザリア記念会もパネル展示に協力
岩手県立図書館の依頼により「賢治資料展」にパネル展示の協力をしています。
宮沢賢治と親交のあった人物として「保阪嘉内の生涯」や「賢治からの手紙」「植物園にて」のパネルや写真などを展示しています。
多くの方が参観し保阪嘉内への関心も高まっているそうです。
以下は岩手県立図書館のホームページから抜粋。

日 時 10月27日(火)~11月24日(火)
※最終日は17時まで。
会 場 4階 企画展示コーナー ほか
内 容 今回の『賢治資料展』では、「第63回 読書週間」にあわせ、当館が過去2年間(2007年8月から2009年7月まで)に新しく収集した宮沢賢治関連資料を紹介するとともに、展示コーナーをはじめ、館内各所で賢治に関する展示を行います。
賢治の描いた「ほし」や、彼との親交を通して互いに影響を与えあった「人々」についての紹介等、今回も多彩なテーマに沿ってお送りいたします。
皆さまお誘い合わせのうえ、ぜひお越しください。
以下、展示風景です。



(記:むこうみず)
「銀河の誓いIN韮崎・アザリアの友たち」 [会の活動]
10月11日(日)に東京エレクトロン韮崎文化ホール大ホールに於いて韮崎市制施行55周年記念式典の後、構成劇「銀河の誓いIN韮崎・アザリアの友たち」が上演されました。
アザリア記念会会長の清水一さんが脚本・演出を担当しました。
記念会副会長の林紘子さんらによる箏曲「光のトレイン」から始まりました。

「光のトレイン」
事務局長の向山三樹さんが風の又三郎役で司会進行をしました。

又三郎
保阪家から長男善三さんが登場、アザリアの遺族が次々とお話をします。
宮澤家から賢治の弟清六さんの孫・和樹さんは「初めて山梨の地に訪れたこと。
みんなのためになにか役立とうという賢治さんやアザリアの仲間たちの精神を受け継ぐことの大切さ」について話されました。

宮沢和樹氏
小菅家から長男充さんが「アザリアの仲間として父が生きた誇りを感じ栃木の地元から活動に取り組む決意」、河本家から義行の次女御舩道子さん孫の河本義和さんが「倉吉での河本緑石の生きた姿とその精神を受け継ぐ27回目を迎えたアザリアの町音楽祭と河本緑石研究会の活動」について話されました。

小菅充氏

御舩道子氏(中央)

河本義和氏
岩手大学長藤井克巳氏から「アザリアの仲間たちの母校として岩手大開学60周年に取り組んだことや学生達にこの精神を伝え受け継ぐことの大切さについて」述べた後「60周年記念展示を行った大学図書館ギャラリーをアザリアギャラリーと名付けた」ことの報告がありました。

岩手大学 藤井学長
盛岡大学長望月善次氏(甲府第一高校出身で保阪嘉内の後輩にあたる)からは「保阪嘉内の短歌とその流れる思想」と題して「アザリアの時代の嘉内の短歌は賢治をリードするものでもあった。高等農林時代に一定の力量をもった短歌を次々に発表していた。」ことについて具体的に短歌の紹介をしながら話しました。

盛岡大学 望月学長
韮崎市民合唱団が保阪嘉内作詩作曲の「アザリア」「帰去来」「勿忘草の歌」「藤井青年団歌」を歌い上げました。

韮崎市民合唱団
元杜陵小校長石田紘子氏から「山梨県から贈られたやまなしの木と岩手県から贈られたギンドロの木を通しての深く広くつながる両県の交流」についての話がありました。

石田紘子氏
賢治研究家の杉田英生さんから「アザリアの友たち、保阪嘉内の思想と賢治に与えた影響について」「その思想を受け継ぐことの意義」について話がありました。

杉田英生氏
韮崎市長の横内公明さんは各地から韮崎に集った関係者に感謝の意を表すと共に「生涯学習の先輩として本市出身の保阪嘉内に学び市民の誇りとする」ことや「兄の横内正明知事から県の文学館に賢治からの手紙を寄託することを言われたが韮崎市の貴重な文化財として責任を持って守り、後世に伝える」旨の発言がありました。

横内韮崎市長
約1時間30分にわたっての構成劇は最後に関係者全員が登壇し市民合唱団の「星めぐりの歌」の合唱にのせて「銀河の誓い」を韮崎の地から発信しました。

「銀河の誓い」
スライド写真として韮崎市在住の自然写真家牛山俊男氏の「韮崎の星空」「中央線の銀河鉄道の写真」などが披露されました。

中央線の銀河鉄道
韮崎市民の力を結集した企画に集まった300人を越える参加者から大きな拍手がわき起こりました。
登壇者は出演者の他に保阪嘉内次男・保阪庸夫さん、同長女・中山牧子さん、同孫の新村美佳さん、岩手大副学長大塚尚寛先生、佐藤広報課長、栃木県さくら市ミュージアム中野館長さん等さくら市の関係者7人などでした。

保阪庸夫氏
記念のDVDも作成しました。
当日参加できなかった方にも映像で御覧いただけます。
(研究会等への貸し出しについては事務局にご相談ください)
(記:むこうみず)
アザリア記念会会長の清水一さんが脚本・演出を担当しました。
記念会副会長の林紘子さんらによる箏曲「光のトレイン」から始まりました。
「光のトレイン」
事務局長の向山三樹さんが風の又三郎役で司会進行をしました。
又三郎
保阪家から長男善三さんが登場、アザリアの遺族が次々とお話をします。
宮澤家から賢治の弟清六さんの孫・和樹さんは「初めて山梨の地に訪れたこと。
みんなのためになにか役立とうという賢治さんやアザリアの仲間たちの精神を受け継ぐことの大切さ」について話されました。
宮沢和樹氏
小菅家から長男充さんが「アザリアの仲間として父が生きた誇りを感じ栃木の地元から活動に取り組む決意」、河本家から義行の次女御舩道子さん孫の河本義和さんが「倉吉での河本緑石の生きた姿とその精神を受け継ぐ27回目を迎えたアザリアの町音楽祭と河本緑石研究会の活動」について話されました。
小菅充氏
御舩道子氏(中央)
河本義和氏
岩手大学長藤井克巳氏から「アザリアの仲間たちの母校として岩手大開学60周年に取り組んだことや学生達にこの精神を伝え受け継ぐことの大切さについて」述べた後「60周年記念展示を行った大学図書館ギャラリーをアザリアギャラリーと名付けた」ことの報告がありました。
岩手大学 藤井学長
盛岡大学長望月善次氏(甲府第一高校出身で保阪嘉内の後輩にあたる)からは「保阪嘉内の短歌とその流れる思想」と題して「アザリアの時代の嘉内の短歌は賢治をリードするものでもあった。高等農林時代に一定の力量をもった短歌を次々に発表していた。」ことについて具体的に短歌の紹介をしながら話しました。
盛岡大学 望月学長
韮崎市民合唱団が保阪嘉内作詩作曲の「アザリア」「帰去来」「勿忘草の歌」「藤井青年団歌」を歌い上げました。
韮崎市民合唱団
元杜陵小校長石田紘子氏から「山梨県から贈られたやまなしの木と岩手県から贈られたギンドロの木を通しての深く広くつながる両県の交流」についての話がありました。
石田紘子氏
賢治研究家の杉田英生さんから「アザリアの友たち、保阪嘉内の思想と賢治に与えた影響について」「その思想を受け継ぐことの意義」について話がありました。
杉田英生氏
韮崎市長の横内公明さんは各地から韮崎に集った関係者に感謝の意を表すと共に「生涯学習の先輩として本市出身の保阪嘉内に学び市民の誇りとする」ことや「兄の横内正明知事から県の文学館に賢治からの手紙を寄託することを言われたが韮崎市の貴重な文化財として責任を持って守り、後世に伝える」旨の発言がありました。
横内韮崎市長
約1時間30分にわたっての構成劇は最後に関係者全員が登壇し市民合唱団の「星めぐりの歌」の合唱にのせて「銀河の誓い」を韮崎の地から発信しました。
「銀河の誓い」
スライド写真として韮崎市在住の自然写真家牛山俊男氏の「韮崎の星空」「中央線の銀河鉄道の写真」などが披露されました。
中央線の銀河鉄道
韮崎市民の力を結集した企画に集まった300人を越える参加者から大きな拍手がわき起こりました。
登壇者は出演者の他に保阪嘉内次男・保阪庸夫さん、同長女・中山牧子さん、同孫の新村美佳さん、岩手大副学長大塚尚寛先生、佐藤広報課長、栃木県さくら市ミュージアム中野館長さん等さくら市の関係者7人などでした。
保阪庸夫氏
記念のDVDも作成しました。
当日参加できなかった方にも映像で御覧いただけます。
(研究会等への貸し出しについては事務局にご相談ください)
(記:むこうみず)
記念展示「銀河の誓いは永遠に」開催しました [会の活動]
韮崎市制施行55周年記念展示
「銀河の誓いは永遠に」
―保阪嘉内の足跡とアザリアの仲間たち― 開催される
10月10日から12日までの3日間、東京エレクトロン韮崎文化ホール展示室において記念展示が行われました。
保阪嘉内の生涯についてのパネル、アザリアの友たちの書簡(宮澤賢治、小菅健吉、河本義行)、写真、資料、宮澤賢治から贈られた「春と修羅」「真宗聖典」などの展示がされました。
また、宮澤賢治記念館提供の賢治作品の原稿の複製から「賢治作品の中の嘉内」のコーナー、全国の交流のコーナーでは岩手、栃木、鳥取、山梨の会の取り組んでいる行事の紹介や冊子、本、ポスターなどが展示されました。
3年前の110周年記念事業でも展示がされましたが更に充実した内容で参観者も満足されたようです。
3日間で約450人(韮崎市約300人、山梨県内約100人(甲府市、北杜市、甲斐市など)、山梨県外約50人(岩手、栃木、埼玉、群馬、茨城、愛知、長野、東京、神奈川、千葉)が参観しました。

展示室入口(遠景)

展示室入口

岩手大学・藁谷教授製作 アザリアサイコロ

春と修羅

小菅、河本氏からの手紙等

アザリア

嘉内のスケッチブックから

賢治からの手紙

展示室風景
感想から
大変貴重なる資料展を見ることができ勉強になりました。
これだけの資料を保存することは実に大変なご努力がいるものと思われます。
ぜひ数十年、数百年の後世にもしっかり残して貴重な財産を守っていただければと願っています。
(横浜市Sさん)
前回より更に出品数が増えてきたのですね。
これだけの資料を見るにつけ現在のパソコン社会とのギャップを感じざるをえません。
かつての方がより一層人間味があふれる時代であったと感じます。
(韮崎市Tさん)
貴重なたくさんの資料をゆっくり見せていただいてうれしかったです。
保阪嘉内さんの身内の方がいらっしゃる今もっともっと深く嘉内さんの青春と生きた道を私たちに残し伝え続けてほしいと思います。
私たち韮崎市の誇りです。
韮崎市の皆さん力を入れましょう。
(韮崎市Nさん)
とてもすばらしかったです。
保阪嘉内と宮澤賢治さんの絆の中にこそ、人の幸せとか平和への思いがあったことを確認し感動しました。
山梨から優しい思いやりの言葉が発信されますように。
(北杜市Hさん)
人間の交流が思わぬところであるのだなと思いました。
宮澤賢治の作品が保阪嘉内に影響されたのだと思いました。
それにしてもスケッチの色合い等すてきでした。
(甲府市Kさん)
アザリアの友たちの誓いが時空を超えて今の私たちにすばらしい夢を伝えてくれるそしてそれはいろいろなことで疲れている現代人を励まし導くものと思います。
(Tさん)
見学させていただきよく資料を集められたことに感心しました。
保阪家によく残しておられたと思います。
賢治と嘉内さんが理想と実践において残された文化的な遺産が今になって世に認識され文化的には乏しかったこの地にも一点の光を灯したものと思われます。
そして人生の生き方を示したこの企画は大変良かったことを感想と致します。
(Mさん)
アザリアのまいた種がこんなにも大きく実るなんて、感極まるものがありました。
企画展が3日間だけなんて「もったいない」という声も聞かれました。
(Fさん)
新聞でも紹介されました。
山梨日日新聞 10月11日付け
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/10/11/12.html
山梨日日新聞 10月12日付け
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/10/12/14.html
山梨日日新聞 10月17日付け風林火山
http://www.sannichi.co.jp/column/news/2009/10/17/2.html
記念の集いについては次回紹介します。
(記:むこうみず)
「銀河の誓いは永遠に」
―保阪嘉内の足跡とアザリアの仲間たち― 開催される
10月10日から12日までの3日間、東京エレクトロン韮崎文化ホール展示室において記念展示が行われました。
保阪嘉内の生涯についてのパネル、アザリアの友たちの書簡(宮澤賢治、小菅健吉、河本義行)、写真、資料、宮澤賢治から贈られた「春と修羅」「真宗聖典」などの展示がされました。
また、宮澤賢治記念館提供の賢治作品の原稿の複製から「賢治作品の中の嘉内」のコーナー、全国の交流のコーナーでは岩手、栃木、鳥取、山梨の会の取り組んでいる行事の紹介や冊子、本、ポスターなどが展示されました。
3年前の110周年記念事業でも展示がされましたが更に充実した内容で参観者も満足されたようです。
3日間で約450人(韮崎市約300人、山梨県内約100人(甲府市、北杜市、甲斐市など)、山梨県外約50人(岩手、栃木、埼玉、群馬、茨城、愛知、長野、東京、神奈川、千葉)が参観しました。
展示室入口(遠景)
展示室入口
岩手大学・藁谷教授製作 アザリアサイコロ
春と修羅

小菅、河本氏からの手紙等
アザリア
嘉内のスケッチブックから
賢治からの手紙
展示室風景
感想から
大変貴重なる資料展を見ることができ勉強になりました。
これだけの資料を保存することは実に大変なご努力がいるものと思われます。
ぜひ数十年、数百年の後世にもしっかり残して貴重な財産を守っていただければと願っています。
(横浜市Sさん)
前回より更に出品数が増えてきたのですね。
これだけの資料を見るにつけ現在のパソコン社会とのギャップを感じざるをえません。
かつての方がより一層人間味があふれる時代であったと感じます。
(韮崎市Tさん)
貴重なたくさんの資料をゆっくり見せていただいてうれしかったです。
保阪嘉内さんの身内の方がいらっしゃる今もっともっと深く嘉内さんの青春と生きた道を私たちに残し伝え続けてほしいと思います。
私たち韮崎市の誇りです。
韮崎市の皆さん力を入れましょう。
(韮崎市Nさん)
とてもすばらしかったです。
保阪嘉内と宮澤賢治さんの絆の中にこそ、人の幸せとか平和への思いがあったことを確認し感動しました。
山梨から優しい思いやりの言葉が発信されますように。
(北杜市Hさん)
人間の交流が思わぬところであるのだなと思いました。
宮澤賢治の作品が保阪嘉内に影響されたのだと思いました。
それにしてもスケッチの色合い等すてきでした。
(甲府市Kさん)
アザリアの友たちの誓いが時空を超えて今の私たちにすばらしい夢を伝えてくれるそしてそれはいろいろなことで疲れている現代人を励まし導くものと思います。
(Tさん)
見学させていただきよく資料を集められたことに感心しました。
保阪家によく残しておられたと思います。
賢治と嘉内さんが理想と実践において残された文化的な遺産が今になって世に認識され文化的には乏しかったこの地にも一点の光を灯したものと思われます。
そして人生の生き方を示したこの企画は大変良かったことを感想と致します。
(Mさん)
アザリアのまいた種がこんなにも大きく実るなんて、感極まるものがありました。
企画展が3日間だけなんて「もったいない」という声も聞かれました。
(Fさん)
新聞でも紹介されました。
山梨日日新聞 10月11日付け
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/10/11/12.html
山梨日日新聞 10月12日付け
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/10/12/14.html
山梨日日新聞 10月17日付け風林火山
http://www.sannichi.co.jp/column/news/2009/10/17/2.html
記念の集いについては次回紹介します。
(記:むこうみず)
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